小説家は、このコトバのあいまい性については、
十二分に掌握しています。
コトバを信じていないけれども、
そのコトバを使ってしか表現はできないという、
矛盾を承知でコトバを操っています。
歌人や俳人は、むしろ、このシニフィエ領域の
広さを逆利用して作歌します。
ようするに、語らないものの奥行きがあるほど、
含蓄のある作品になるのです。
語れないなら、そこを読者に想像してもらう、ということです。
「家族旅行楽しさ満喫」なんていう
歌の下の句を見たことがありますが、
こんなことを言ってはいけません。
こういう内容はコトバの外に置いて、
読者の想像にゆだねるのです。
こういう奥行きのある作品を
「余韻がある」と私たちは呼んでいるのです。
モーリス・ブランショという
二十世紀のひとは
「出来事は、言語化されたときに
その本質的な他者性を失って、
既知の無害で馴染み深く
馴致された経験に縮減される」と説きました。
簡単に申せば、ラーメンを食べて
「うまい」と言います。
この「うまい」はすでに誰しもが使う、
いわば常套句です。
オリジナルなコトバではありません。
これが「他者性を失」うということです。
「既知で無害で馴致された経験」と同義です。
馴致された経験、だれしもが、
「うまい」という経験に慣れているわけです。
ですから、コトバの性質として、
だれしもが使うだろう、
手あかのついたコトバしか、
私たちは使えない、ということになるのです。
やっかいですね。