さて、そもそも、
古代ギリシャまで遡及していいますと、
この世の中にはありとあらゆるものが存在するが、
ニンゲンはまだそれに名前を与えていない。
だから、次つぎと無名なモノに名付けるという
行為をしました。あげく、空にちらばる星々にまで、
熊を見出したり、天びんにたとえたり、
白鳥を分節しました。星座はむしろ、
想像と発見でしょうが、目の前にある石や山や海を、
いったいなんと呼ぼうかな、という仕方の作業が続いたわけです。
これをむつかしくいうと「認識は対象に従う」といいます。
それから、くだること千七百年代、
イマニエル・カントというひとが現れて、
この「認識は対象に従う」に「待った」をかけるのです。
カントは、ニンゲンの理性というものの不完全さを指摘します。
カントの先輩のデカルトやベーコンの成果はみとめるが、
ほんとにちゃんと見たんですか、と言うのです。
じぶんの好きな実験しかしなかったんじゃないですか、と。
だから、カントはとにかくしっかり客観的に、
直観的にものごとを見るのですと説きます。
そういう考量ですから、カントは、じぶんの見たものだけが、
世の中に存在すると説くわけです。
しっかりとした理性的な判断にもとづくものの見方ですね。
これを「対象は認識に従う」と言います。
哲学では、このものの見方の逆転を
「コペルニクス的転回」と呼んでいます。
ちなみに「対象は認識に従う」という考えは、
ソシュールにも影響をあたえ、
ソシュールもおんなじようなことを言っていたことを付記しておきます。
話はそれますが、直観は直感ではありません。
直観は、主観のまじらないものの見方というのが
簡単な説明ですが、これが出来るのは容易ではありません。
だれだってバイアスはかかるものです。
じぶんの嫌いなひとを評価するとき、
まちがいなく嫌な判断をするはずです。
主観がまじるにきまっています。
では、どうすれば直観的なものの見方が
できるのでしょう。そのひとつの方法論として、
せっかく名付けられた「ものの名前」を
消失させるという手があります。
たとえば、リンゴという語を失念させる。
できれば、「赤」とか「丸いもの」とかも捨てる。
それで、果物屋さんでリンゴを買ってください。
どうやって、リンゴを説明しますか。
甘くて、すこし酸っぱくて、
これじゃリンゴにたどりつけない。
ここで、私たちは、はじめてリンゴと正面から向き合って、
はたして君の本質はなんだろう、
なんて考えたりするわけです。
「すりおろして食べられる果物ください」
こういえば、リンゴをくれるでしょうか、
わかりませんが、
こういう仕方で直観力を養うことができます。