また、わたしたち日本人は、
なんでも無防備にうけいれるという姿勢があります。
外来文化をごく当たり前に日常生活にとけこまして、
平然としていられるのです。
日本文化は、よその世界の変化に対応する
変わり身の早さが伝統化しているといってもいいですね。
そしてすべての外来文化をあますところなく
国風にしてしまう。ここが中国人とちがうところです。
おとなりの国家は、
外来語はすべて自国の言語に変換しないと
気が済まないのです。
コンピューターを「電脳」とするなど。
そうしないと、
じぶんたちの手持ちの文化にないものがある、
というのは、おれたち田舎もんじゃん、
という意識、ローカリティの証明になってしまうからと
識者は語ります。
ところが、日本人は、外来語をそのまんま、
平気の平左でつかっています。
こういう日本人の精神構造を「
プラグマティズム」と呼びます。実用主義です。
まず、どの評論家も学者も、
このへんの事情をプラグマティズムという
用語で済ましてしまう傾向がありますが、
まだ、もっと適切な表現があってもいいような気がしています、
が、学問はまだそこまでたどりつけていません。
システムなどという語は、
じつはうまく日本語に翻訳できません。
体系とかいっていますが、すこしずれがあります。
我われは、そんな日本語にできない語でも、
たぶんこんな意味だよね、というあいまい性のもとに、
さも、むかしからあった語彙のように語ることができます。
わたしは豆腐屋さんで「おから」を頼んだら、
「今日は、業者におからを配達する
システムになっていますので」とか言われたとき、
ものすごい違和感をおぼえましたが、
すでに、豆腐屋さんにまで「システム」は
内在化しているのです。