ヤマトコトバなら、
たとえば「おいしい」とか「うれしい」などは、
すんなり身体にしみてきますが、
「概念」とか「理性」とか、「システム」とか、
造語や外来語はなんだか、
こんな感じかなで我われは使っています。
これを「脳化」といいます。
身体性をおびない言語、記憶にない言語です。
その「脳化」された言語、
身体性をおびない言語をつかっているひと
全般を「社会的身体」と呼びます。
だから「愛」などという、
ヤマトコトバになかった中国からの外来語を、
わざわざサ変動詞などくっつけて
「愛する」などと使っていますが、
じっさいに「愛する」ってどういう意味だろう、
よくわからないでいるはずです
。歌謡曲ではたくさん歌詞にあっても、
実地で言ったり、言われたりしていない語が
「愛している」ではないでしょうか。
「愛」、これも社会的身体で
受け止めている記憶の希釈された語彙なのです。
ちなみに、漢語にサ変動詞をつけて
和語化することがさかんになるのは、
院政期、千百年ころの『今昔物語集』などからです。
ま、こうやって語彙数が天文学的に
ふくらんできたのには、
歴史的条件や日本人の性格がふんだんに
関係してきたということなのでしょう。
さて、コトバとひとことで言っても
膠着語である日本語はとくに
むつかしいということがお分かりいただけたでしょうか。
(心霊写真特集のセリフみたいになってしまった)
ところで、わたしの教え子に
看護婦のタマゴがいます。
このあいだ会ったら、
ひだりの腕がまっくろです。
「どうしたの」と訊くと「先輩の看護婦さんに
注射のしかたをおそわったんです。
ほら、ここに打つと痛いでしょ、
ここは痛くないでしょって」
「ふーん、いまの時代、
そんな教え方なんだ」とびっくりしましたが、
これをわたしの主治医に話すと
「え。それただのいじめだよ。
外に知られたら犯罪になるよ」と言われました。
そうなんです。彼女は、先輩のいじめを
「教え」というコードを代入していたから
「ありがとうございました」なんて
言っていたんですね。
記号のコードの代入を入れ
間違うとたいへんなことになります。