ところで「悪」という概念ですが、
どんな善良なひとでも、立場や状況では
「悪人」になる可能性があると説いたの
はハンナ・アレントという女性の哲学者です。
アレントは、ユダヤ人の虐殺、いわゆるホロコーストのさなか、
アイヒマンは、アウシュビッツ強制収容所の大量輸送に関与し、
数百万人の移送に指揮的役割をになったひとですが、
もともとかれはすこぶる温厚で平和的な
父親だったらしいが、ヒトラーには逆らえず、
あの悲惨な事件の中心的人物となってしまったのです。
これをアレントは「悪の凡庸さ」と呼んでいます。
また、マイケル・イグナティエフというカナダの政治学者は、
「許される悪」はあるのか、という難問にいどんでいます。
じっさいに阪神、淡路大震災のアナーキーな
街の治安をまもったのは山口組で
あったことなどかんがえると、
必要悪というものもかんがえる必要があるのかもしれません。
それから、悪人であるとおもわれた人が、
じつはもっとも正義感にあふれている
人物だったということもあるかもしれません。
ウクライナからみたロシアは
非道な国にみえかもしれないが、
ロシアからみたウクライナは、
またちがったものの見方があるかもしれないからです。
われわれにとって、現代、一方的なものの見方だけで
世の中を判断してはいけない時代となっています。
江戸時代は草双紙の挿絵に、悪人は顔に丸だけ描かれていて、
そのまんなかに「悪」という字が埋めこまれており、
これが「悪玉」の語源であったのですが、
そんな善悪二元論はいまの時代ありえません。
つまり、どちらの立場からも、
その功罪、メリット・デメリットを
考量しなくてはならいないのです。
原子力発電所は不要だというかんがえと、
いや、どうしても必要だという姿勢と、
どちらかもよく見極めて、
かんたんに軍配をあげないという
態度がただしいのではないでしょうか。
答えはひとつではない、
というスタンスが必要なのです。
これがじつは、
構造主義をささえてきた原動力のひとつだったわけです。
しかし、無差別な反動的な
行為はやはり許されるものではないですね。
道徳の劣化、アノミーがさけばれている今日ではとくに。