しかし、合衆国憲法の原因主義、
つまり、条文をつくった人びとの意志を尊重すると、
じつは二百年前なので、そのときの「自由」といっても、
そのときは黒人奴隷のいたときで、
いまの「自由」とは意味合いが違う、
という危険性もあることを付記しておきます。
それに、憲法をつくったひとはひとりではなく、
多数のひとの合意でつくられたわけですから、
ファンディング・ファーザーをいま呼び出しても、
意見が合致するとは限らないということも
かんがえなくてはなりません。
ま、日本国憲法はまだわかいので、
原因主義的論点でもじゅうぶんかんがえなおす機会、
改訂はあるはずです。それがいいかどうかは別問題です。
で、ここが肝心なのですが、けっきょく、
憲法には、権力者を他者として向かわせるという
側面があります。憲法を他者として認識しないとき、
ものすごくおそろしい歴史が始まる可能性があります。
憲法とはだれにとっても他者であるというおおきな
価値がそこに存在しているわけです。
憲法のことをいやがっているひとは、
他者として向かいたくないという性情がうごいているわけで、
じぶんの都合のいいように、見たいものしか見ない、
やりたいことしかやらない、
という認知的斉合性がはたらいているのです。
新城カズマという作家は、
スターウォーズの最新作で、
もっともよかったのは「悪」の描き方だといいます。
「悪」がひどく空虚に描かれていたというのです。
空虚とは、換言すれば憲法と
向かい合っていないということにほかならないのです。
つまり、他者としての憲法とはすこぶる窮屈な存在なのですね。