近代に話をもどしますと、
教会の必要性が希釈されますと、
それでもキリスト教を信仰する人びとはいます。
教会を必要としないキリスト教徒を
「プロテスタント」と呼んでいます。
それと同時に、つらい中世の時代のそのひとつ手前、
つまり古代の人たちの活気に満ちた生活を人びとは
ノスタルジックに夢想します。
その夢がルネサンスです。ルネサンスとは、
一世代前をとびこしたもうひとつ前の世代に、
精神的にもどることを意味します。
だから、文芸復興というコトバになるわけです。
あの「モナリザのほほえみ」に
宗教色がみえているでしょうか、
たぶん皆無です。私見ですが、
あのモナリザの絵画の後方の森は、
暗黒の中世を象徴しているのではないでしょうか。
そして、その時代を飛び出してきたのだという
至高の喜びを、あの言いようもないほほえみが
あらわしているようにわたしにはおもえてならないのです。
さて、近代合理主義が排出した学者ですが、
まず、十七世紀のルネ・デカルトをあげねばなりません。
デカルトは世界とはどうなっているのか、
まずはすべてを疑うことからはじめます。
そして疑っているじぶんだけはたしかに
存在するというものの見方で考察してゆきます。
そこで、デカルトは自然とはひとつのモノであり、
それはニンゲンが支配するべきものとして
存在すると考えました。
これがデカルト二元論 (物心二元論) です。
すべては理性を作動させた
「われおもうゆえにわれあり」の結果でした。
この方法論は、まずは真理としての命題をうちたて、
それにともなう具体的事象をあつめるという仕方です。
このような抽象から具象をみちびく方法論を
「演繹法(ディテクティブ)」とよびます。
もともと、四世紀にヨーロッパに移住してきた
ゲルマン人は、北海道より高い緯度の場を
選んだわけですから、偏西風によって気温は
住むのに適していたかもしれませんが、
やはり厳しい自然と対峙しなくてはなりませんでした。
それに、かれらの基本が狩猟民族ですから、
やはり自然は敵であったのです。
オオカミが最後にレンガの家には屈服するという
モノガタリがそれを象徴していますね。