漢字書取の採点をして、ほとほとあきれることがある。
たとえばだが、「虐待」の」「虐」の字の
なかにある英語の「E」のような部分が
逆になっているのだ。カタカナの「ヨ」になっているわけだ。
丸をつけるこちらがわでは、
景気よく、さらさらと丸をつけてゆこうとおもうと、
いっしゅん、変だな、と立ち止まってしまう。
なんか違うんだよ。で、よーく見ると、
そんなふうに、ホンモノの字とちょっと違っているじゃないか。
いやになるね。
「虐待」だけではない。「達」の羊の部分が、
一本足りなかったり、「鹿」という字が、
やっぱり変だったり。一本足りない字を書く。
気持ち悪くないのかね。三本足の牛なんかいたら
さぞかし気持ちわるいだろうに。
つまり、生徒の書く漢字は「似て非なるもの」なのである。
こんなんでいいや、とおもっているんだろう。
漢字書取という領域は、正しい漢字を正確に
書き写さないと正解にならない。
このへんの事情について、国語の教員で言及した
ひとがそう多くないとおもうのだが、
ま、当たり前のことだからだが、ようするに、
漢字書取の急所は、百パーセントコピーを
しなくてはならない、完全コピー以外は
すべて正しくない、というところなのである。
ね、あんまり、そんな言われ方したことないでしょう。
ところで、この完全コピーをむかしは「真似ぶ」と言って、
ひいてはこの「真似ぶ」が現在の「学ぶ」と
変移してゆくわけだから、つまりは「学ぶ」とは、
完全コピーをすることを意味したのである。
とてつもない音痴がいる。
そいつはそいつで、ちゃんと防衛手段をもっていて、
じぶんの下手さ加減を指摘されるたんびに、
いや、編曲したんだよ、とか、
気の遠くなるようなことを平気で言うのだ。
ほんとは、音程を完全コピーできないからにほかならないのに。
わたしたちの青春時代はフォークの全盛で、
吉田拓郎や泉谷しげるやかぐや姫などが、
フォークギターでがしゃがしゃやっていたけれど、
あれをよく真似たものだ。石川達彦とかいう
一級のギタリストがいて、
このひとのスリーフィンガーがコピーできるかどうかで、
われわれにわかギタリストの兵隊さんの位が
きまったものなのだ。
じふんのことを言うのは口幅ったいが、
よくコピーしたとおもう。
四六時中、ギターいじっていたからなあ。
ただし、ほんとにそっくりできたどうかは
自信がないけど、
とにかく真似ようという意欲はじゅうぶんたあった(はずだ)。
が、いまの若者は、まあ、こんな感じでいいや、
くらいの音量で真似をするから、
やっぱり「似て非なるもの」しか生まれてこないんだろうとおもう。
こういった事情は、漢字書取や音楽に
ついてだけではない。彼らの処世も、
「似て非なるもの」なのではないか。
だれかさんの外見だけ真似て、じつは、
その内に秘めている、思想や力量を読みとれない、
とか、そのひとの部分的なところだけ、なんとなく真似ているとか。
そして、真実の核の部分については、
「E」を「ヨ」と書いてしまうように、
「非なるもの」になっている。
が、そのへんを指摘されれば、いいんですよ、
おれはおれだから、とか、「おれだから」論を展開させるのだ。
「おれはおれだから」。よく聞くせりふだ。
なにが、「おれ」なのか。その「だから」という
理由を示す助詞にはなんの根拠が根ざしているのか。
「似て非なるもの」しか持ち合わせていない「おれ」。
その「おれ」がどうあがいても、
「似て非なるもの」しか表現できないはずなのに、
「おれだから」と自己肯定して、進歩を止めている姿勢。
たぶん、こういうやつは出世しないね。
で、出世しないでぐずぐずと、
炬燵にでもかがまりながら言うんだ。
「世の中が悪いのさ」
人間の学びの出発点は、
真似ることなのだ。うまいひとの文章をよく読んで、
その呼吸を学ぶ。うまいひとの演奏をよく聴いて、
その呼吸を学ぶ。うまいひとの演技をよく見て、
その呼吸を学ぶ。名人、達人のしぐさを真似て、
そして、その真髄を感じとり、吸収する。
そうしてそれをじぶんの人生に応用する、
というのが正しい生き方だ、とわたしはおもう。
じつは、当の漢字を書けないクラスで
わたしはそんな苦言を呈したことがある。
「真似ぶ、ということばがあってな、
これがいまの学ぶとなるんだ。
おまえたちは、この学ぶことが苦手だ。
だから、似て非なるものがうまれるんだよ。わかったか」
と、馬の耳に念仏、生徒のひとりがこう言い返してきた。
「はぁー。金八先生みたいだなあ」
「学ぶ」ことができないやつを、
教育界の専門用語で、馬鹿と呼ぶ。