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月やあらぬ

 

『伊勢物語』は、国風文化時代に成立した

歌物語である。国風文化という時代は、

醍醐、村上という親子の天皇が政治を主導していた、

いわゆる「天皇中心国家」の世の中で、

おかげで文化がじっくり醸成した時代だった。

 

 平仮名や片仮名の発明もこのころだし、

『竹取物語』が生まれたり、

国家的事業たるわが国初の勅撰集『古今集』の

編纂がなされたりしたことをみてもよくわかる。

 

 この時代において、とくに紀貫之の存在はおおきい。

『古今集』編纂の中心的人物であったし、

それから三十年後に『土佐日記』を書く。

 

六歌仙のひとり、在原業平をモデルとしたといわれる

『伊勢物語』の作者はいまだつまびらかではないが、

紀貫之の作であると信じてやまない学者もいる。

その当時にあって、貫之ほどの才覚の輩出は考えにくいので、

貫之の作なのかもしれない。

 

ま、わたしどものような門外漢は、

だれの作であってもほとんど関係しないのであるが。

 

『伊勢物語』四段のくだり。

「男」が東の五条に住む「女人」のもとに

通っていたのだが、その女性が正月ころに姿を消してしまう。

移り先はわかっていたのだが

「人のいき通ふべき所にあらざりければ」

という場所なので、「男」はただじれったがるばかりである。

 

『伊勢物語』は、モデルが限定されているので、

じつは、こんなあいまいな表記でも「男」は在原業平、

「女人」は二条の后、

「人のいき通ふ所にあらざり」といえば、

宮中を示唆していることは、

当時の知識階層には容易に察しがついたことだろう。

 

 で、「男」は、翌年、やはり「女」を忘れられず、

その宿を訪れるのだ。が、

その家はすっかり荒れ果ててしまっていた。そこで「男」の歌。

 

 ・月やあらぬ春やむかしの春ならぬ

わが身ひとつはもとの身にして

 

 藤原俊成が『古来風体抄』で絶賛した歌であり、

じつは、この歌は『古今集』にも

在原業平の歌として収められている。

 

 在原業平の歌というのは、

「意あまって詞足らず」という傾向があるが、

やはり、これだけ有名になりながらも、

とんでもないキズがあるのだ。それが「や」。

 

 係助詞の「や」には、「疑問」と「反語」の

両者の意があるのだが、

この作品はどちらとも判定がつきにくい。

「疑問」なら、「月は去年の月と違うのか、

春よ、去年の春ではないのか。

私だけは去年のままなのだよ」となる。

「反語」なら、「月は去年とおなじだ、

春だって去年のままだ。私だけが違ってしまっているのだなあ」と、

すこし複雑になる。「疑問」と「反語」のとりかたの差が、

「わが身ひとつはもとの身にして」の解釈にひびいてきて、

ちょうど逆の意味になってしまうといううらみがのこる。

 

 はたして、紀貫之は、この歌をどう理解したのか。

どちらであるにせよ、ともかく「詞足らず」とも、

この「意」をくんで佳作とおもったことにはかわりない。