塾にいるわかい先生に
「国語の成績を伸ばすには
本質的なことを教えないといけないとおもうよ」と
わたしがいうと、かれは言下に
「そんなこと要りませんよ、本質なんて大学でおそわれば
いいんで、問題の答えを言っていればいいんです」と
わたしを諭すように言った。
わたしはこいつを「クズ」だとおもったが、
「ふーん、そうなんですか」と軽く相槌を打っていた。
国語にかぎらず、能力をたかめるには
まず、ニンゲンってなに、からかんがえるべきだ。
アメリカの研究らしいが、
ひとの能力のアップには、環境説と遺伝説があるらしい。
環境によってひとはかわるという思量と
どっちみち親か隔世遺伝かできまるという説とに
わかれるのだ。
で、けっきょく、環境説は十歳くらいまでは妥当するが、
それ以降は、ざんねんながら遺伝がもの言うらしい。
つまり、どんなに苦労しても
けっきょく、親か祖父母のDNAに左右されるのである。
小学校のころに神童といわれても
大人になると「ただのひと」となるのは、
遺伝が作動したからなのだ。
そこで、わたしは国語のことしかわからないから、
国語のはなしをするが、
おおよその学生はじぶんのもっている
知能指数より低く国語を学んでいるとおもう。
それは、日常、コトバを操っているのだから、
教わらなくてもわかるわいっておもっているひとが
大半だからである。
たとえば、「大阪」と「住む」という語をつなげたとき、
「大阪に住む」となる。
また、「大阪」と「働く」をつなげれば
「大阪で働く」と言う。
じゃ「に」と「で」という場所をあらわす語の
ちがいはなんだろうって考えたとき、
「はて、わたしはどうして『に』にしたんだろう」
と、わかっているのになぜそうなるかを
よくわかっていない領域があることに気づく。
この、答えはでるがなぜそうなるかを
まったくわからないことを「脳のブラックボックス」という。
日常つかっている言語ゆえに
このブラックボックスが山ほどあるのだ。
この無数のブラックボックスを開示することが
できれば、わたしは知能指数、IQに近づけるとおもっている。
ほとんどのひとが知能指数以下で
暮らしていて、それをアンダーアチーバーとよんでいるが、
それで、まあまあ点が取れるのだが、
そこに「に」と「で」の違いとか、
コトバの本質的なことを言語化されていけば、
おのず読解力は格段にあがると信じている。
たとえば「と」。
「わー」と喜んだ。
「わー」と泣いた。
この「わー」は、一種の叫びであり、意味が
それだけではとれない。が、つづく「喜ぶ」「泣く」という語が
あるから「わー」の意味が限定される。
つまり、「と」という助詞の下につく動詞によって
カギの中身が決まってくるということだから、
われわれは、ブラックボックスのなかで、「と」の
上下は内容がイコールであり、それは
下接する動詞によって規定されている、
ということを前景化させておく、
そうすれば、古文を読むときも「と」の
下の動詞に着目し、カギの中身がたしょうわからなくても、
起こっているのか、褒められているのか、悲しんでいるのか、
それが、逆算的にわかるのである。
こういう、当たり前じゃんという、
しかし、いままでちゃんと整理してこなかった
コトバを、言語化、前景化することで
読解ははるかに向上するのである。
だが、高校生になるは遺伝が優勢になるから、
つまりは、その本人のIQまでが限界となる。
オーバーアチーバーにはなかなかなりえない。
が、ほとんどの学生がアンダーアチーバーで
生きているのだから、IQまでじぶんの能力を
開花させれば、おのず他の学生よりも
偏差値はあがる、というものである。
偏差値とは同学齢集団の位置であるから、
普遍的な天才をつくらなくてよく、
その集団のトップクラスにはいればいいので、
数値的には成績があがっているのである。
塾ではたらくわかい教師も
それに気づいくれれば幸いだし、
気づかず、答えだけいっている先生がいるから、
まだ、わたしが現場に立っていられるという
ことにもなっているのだが。