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因縁

 平清盛の娘、徳子。安徳天皇の母。

女院。建礼門院 (天皇の母には宮中の門の称号が贈られる)。

平氏がことごとく壇ノ浦で入水したなか、

ひとり、源氏によって瀬戸内の急流から救いあげられ、

そのまま京都に送還される。

彼女は、壇ノ浦で義母の二位の尼や

わが子安徳帝の入水を目の当たりにしている。

一一八十五年。陰暦三月の下旬。

 

源氏政権が女院を救出したのは、

彼女の軟禁が、平氏の巻き返しの抑制になると

判断したためだったのではないか。これはわたしの推論。

 

 女院は、そのまま京都の長楽寺に護送され、

そこで得度、出家させられる。

長楽寺には、息子の安徳帝の幡などの遺品をふくめ、

建礼門院の肖像画(薄墨が塗られている)が展示されている。


 そののち、建礼門院徳子は、

大原寂光院(清香山玉泉寺)に移され、

ここで永久に軟禁、平家の菩提を弔ったということである。

一二四五年一月二十五日、永眠。享年五十九歳。


 女院は、高倉天皇の后として、

また安徳天皇の母として、宮中におけるファーストレディで君臨し、

また、いっしゅんにして新政権から朝敵扱いされた、

文字通り「天と地」を味わった人物だ。

歴史に翻弄されたといってもよい。

 

 ・今や夢むかしや夢とまよはれていかにまよへどうつつとぞなき


 建礼門院に仕えた女官、右京大夫の作。

『建礼門院右京大夫集』所収。

右京大夫が大原にいる女院を詠んだもの。

「うつつとぞなき」というところに無常たる

世の中のはなかさがよく映し込まれている。

さながら「盛者必衰のことわり」である。

 

『建礼門院右京大夫集』は、

藤原定家が九番目の勅撰和歌集

『新勅撰集』を編もうとしたとき、

右京大夫に歌の提出を求めたところに由来する。

だから、日記的な部分と和歌とがハイブリッドに配されている。

 

 ・あふぎみしむかしの雲のうへの月かかるみやまのかげぞかなしき

  

 寂光院は比叡山延暦寺のふもとおよそ

二キロメートルに位置する秘境である。

大原という地は、当時は多くの修行僧の道場でもあった。

声明(しょうみょう)発祥の現場でもある。

 

ところで、この寂光院が全焼した。

平成十二年五月九日。

心ないものの放火らしい。

そして、このあいだ、長楽寺が燃えた。

平成二〇年五月八日、出火の原因は特定できていない。

ほとんど全焼したとのこと。

 

この十年、京都で焼失した寺はふたつしかない。

寂光院と長楽寺の二寺である。

どちらも、建礼門院徳子のゆかりの寺。

それも、五月の九日と八日。陰暦の三月。

 

なんかあるんじゃないか、

ワトスン君。じつは、

これをおもうと、鳥肌が立つおもいなのだ。