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葡萄の歌

・沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨降りそそぐ
                           斉藤茂吉

 斉藤茂吉の代表的な歌である。
「黒き葡萄」が戦争のメタファになっており、
そこに「雨降りそそぐ」と、
戦争に荷担した作者の内省が込められている、という説もある。
 
・手作りの葡萄の酒を君に強ひ都の歌を乞ひまつるかな
                          山川登美子

この「君」は鉄幹なのだろうか。『恋衣』の「白百合」に見える。
 
 ・口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも
                         『葡萄木立』葛原妙子

 葛原を、やはり代表する歌である。
この歌の神秘について、
小高賢氏は
「多分一粒の葡萄にいのちの原型の
ようなものを感じているのだろう。
人間の深層にある生命への敬虔な気持ちが、
潰すことによって動揺を与えられることから
発するのではないだろうか」
(「現代短歌鑑賞101」) と語っている。

 近現代は「葡萄」を道具立てにして、
たとえば、「戦争」を、
たとえば「恋」を、
たとえば「いのち」を象徴させてきた。

 

 葡萄は、鎌倉時代に輸入、
甲州山梨で栽培され、
その地方の特産品であったそうだ。
鎌倉時代の辞書『節用集』にも「葡萄 ブダウ」と表記され、
その存在が明らかである。

じっさい、葡萄は、
唐の詩にも「葡萄の美酒 夜光の杯」とあり、
葡萄酒が存在していたことがわかる。

ま、西域の特殊な酒だったらしいが。
 が、しかし、もちろん『源氏物語』にも
『枕草子』にも、葡萄の記載はなく、
応仁の乱まで続くエンエン二十一の勅撰和歌集にも、
葡萄の歌はひとつもないのである。


 で、わたしは、とくに『新古今集』において、
葡萄以外の果物の歌がどのくらいあるのか、
調べてみた。
そうしたところ、これが、皆無、ひとつもない。葡萄はおろか、
みかんも梨も西瓜もない。

『新古今集』には果物がない。


それというのも、
果実を食べるという(あるいは食事全般としての)
身体運用がそのまま象徴性につながる、という事情はなかった、
ということなのだろう。たぶんそうだな。


 光源氏が紫の上と葡萄をつまんでいる、
なんていう情景を想像するのもオツではないか。
が、古代の歌や物語には、
そんな香気に満ちた舞台はあり得なかった。残念。


「たれの子も生めるからだの悲しさに蛍光に照るぶどうをほぐす」
と詠んだのは加藤治郎である。
「たれの子も生め」たであろうよ、紫の上。

 ところで、遣唐使で唐にわたった人たちは、
きっと葡萄酒、飲んでいたんだろうな