「きのう佐々木さん来なかったよ」
わたしは、遅刻してきた沢口くんにそう言った。
「ほんとですか、連絡は」
「ないよ、無断欠勤」
「それはよくないですね」
「ま、遅刻するのもどうかとおもうがね」
と、沢口くんはけらけら笑った。
かれは、わたしの教え子であると同時に
この店でバイトをしてくれている。
退職してしばらく仕事がないというので、
店を手伝ってもらっているのだ。
飲食のインストラクターをしたい、
というのが彼の夢らしい。
おいしい焼肉屋があって、そこから
肉をオーダーして、じぶんでは、マンションの
一室を借りて、そこに一日、二組限定で予約をとり、
酒だけで儲けをとる、という料理屋を計画している。
「せんせい、それどうおもいますか」
って訊かれたから、わたしは、言下に
「それ、だめだとおもうよ」と答えたので、
それきり、かれはその話をわたしにしなくなった。
そもそも、肉を焼肉屋から売ってもらって、
酒だけで生計をたてようとする飲食業など
聞いたことがない。
だれが聞いたって、それは無理な話である。
飲食のインストラクターもじゅうぶん
立派な職業だとおもうが、
沢口くんのウィークは、包丁が持てないことだ。
ネギの刻みができないのである。
左手の、いわゆる「猫の手」ができないし、
包丁もうまく持てない。
なんべんもわたしが練習しろというのだが、
そこはかたくなに拒否している。
かれは「じぶんにむいていない」と言い張っているのだ。
このあいだは、
「白髪ねぎ、戦略的に明日のあさ、
切った方がいいとおもいます」と断言するので、
わたしはかれの言うことにしたがった。
が、その明日のあさ、かれは休んだ。
ぎっくり腰になったという。
ちなみに、白髪ねぎは「白髪2000」という機械がやるので、
切るほうは、ハンドルをくるくる回せばいいだけだから、
沢口くんにもできるのだが、
来なければ、なんにもならない。
翌週、かれが出勤したときに、
「そもそもお前の戦略ってなんだよ。
休むことなのかよ」と言ったら、
「すんません」とか言いながら
また、けらけら笑いだした。
しかし、沢口くんが来てくれると、わたしの仕事が
はんぶんになる。
すべてのセットを任せることができるからだ。
さあ、開店というところから、その日は
わりにお客さんが入ってきた。
佐々木さんの休んだ翌日である。
で、冷蔵庫から出してきた刻みネギを
一口つまんでみると、すこし酸味がでている。
これはだめである。
こんなネギを出したらたいへんだ。
「おい、ネギだめだ。新しいの出して」
と、わたしが言うと、
かれは、まだ刻んでいないネギの束を
まな板の上においた。
「なに?」
「これしかありません」
「なら、お前切れよ」と、わたしが言うと、
かれはまたニヤニヤして、
「だから、僕は切れないって言ったじゃないですか」
と言う。
「あのな、もうお客さんが来ているんだから、
遅くなってもいいからお前切れよ。
練習。練習。練習しないと、うまくなれないだろ」
「いやぁ、僕には向いてないんですよ」
「ゆっくりてでもいいから、やれよ」
「いや、これはすべては佐々木さんがいけなかった
ということでして」
と、沢口くんは言う。
「・・・お前、すべて佐々木さんのせいにするの?」
「はい」
電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、
みんな佐々木さんが悪いのよ。
「あのな」
「はい」
「お前、じぶんのことは棚にあげて、
元凶を一元化させようとしているだろう」
と、またかれは笑いだした。
「それって、いいか、全体主義の発生の一因だぞ。
悪いのは奴だ、みたいにな」
と、かれは、もっと笑いだしたのだ。