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マット交換

 善人だが善良でないひと、そういうひともいる。

 

 会社で出世するひとは善人だが、

そのひとが顧客にたいして、はたして

善良であるかどうか、それはわからない。

 

 

 すでに昼過ぎから天気予報で

雨であることがわかっているのに、

洗車をすすめるガソリンスタンドの店員。

 

 その店員は、営業成績が優秀かもしれない。

それも、満面の笑みで「いかがでしょうか、洗車は」

とかいう。

 

 しかし、わたしは

「すこし車汚れていますが、今日は雨ですから、

次回にしましょうね」と言ってくれる店員をこのむ。

 

 善人な店員は、

会社から褒めたたえられるだろうが、

けっして善良ではない。

 

 右折禁止の場所で、

そのすこし奥の電柱のかげで

違反者をまっている警官。

 

 それは、間違った行為ではない。

違反をするものがいけないのである。

そして、違反するものから切符をきる。

 

 正しい。

 

 が、右折禁止のそのところで

「ここを曲がれませんよ」と指示してくれる

警官がいたら、そのときの違反はなくなる。

 そういう警官はいない。

 

 じぶんの成績にはならないからだ。

 

 警官という仕事は、いま、まさに

ふるえながら拳銃で兄弟分を射殺しようとする

ヤクザをみて、それを事前に止めるのではなく、

射殺したあとを逮捕するのが仕事である。

 

 罪を作る前に、事前にそれを辞めさせたら

ただの善良な警官になるが、ちゃんと罪が成立したあとの

逮捕は、善人な警官として認知されるからである。

 

 

 それは、間違いではないものの、

倫理的な幸福論として、どちらが正しい選択かと

いうことになれば、二者択一はむつかしいのではないか。

 

 だれでも、どんな仕事でも、

相手のためではなく、じぶんのために仕事をするのである。

それは、正しい。

しかし、正しいことが間違ってるということもある。

 

 

 きょう、うちの店のマットを交換にくるひとがいる。

 

 レンタルマットである。

 

 が、うちの店は、11日間休んでいたから

ほとんど汚れていない。

 

 そのマット会社の担当のひとは、

昨日、わざわざうちの店に来て、

ウォーターサーバーを店にいれないかと、

勧誘に来たのだ。

 

 「どうですか、お店のこのへんに置けますが」と。

 

 平身低頭、ものすごく腰の低い、ひとあたりのいいひとである。

が、そのひとの完全に間違っていることは、

うちの店が、最高の活水器を設置した

水にこだわる店であることを

完全に失念しているか、知らないかである。

 

 浄水器、いや、活水器を置いてある店に

なんでウォーターサーバーを設置しなくてはならないのか、

それは、自己矛盾をわざわざ露呈していることに

ほかならない。

 

 つまり、かれは、じぶんの営業成績をのばすためには、

顧客のもっともたいせつにしているところなどは、

まったく眼中にないわけである。

 

 善人なひとなのだが、わたしには善良には

うつらないのである。

 

 昨日、わたしは、そのマット会社の担当者に

電話で、今週はキャンセルできませんかと訊いた。

 

 善良なひとなら「わかりました! では、来週参ります」と

あいさつするだろう。無駄な出費をしなくてすむからである。

 

 しかし、かれは、水にこだわる店にウォーターサーバーを

置こうと勧誘にくるひとだから、

「もう、伝票ができてしまっていますから」と、

わたしの依頼をいとも簡単に断ったのだ。

 おそらく、かれの営業成績に「キズ」がつくからなのだろう。

 

 

 たかだが、数千円の話だから、ほとんど汚れていない

マットを交換することは、惜しまないが、

 にんげんのつきあいとして、善人だが善良でないひとと

これからも応対することが、わたしには

とても哀しいことにおもえるのである。