ウンベルト・エーコというひとが、作品の鑑賞態度を「経験読者」と
「モデル読者」とに二分しました。
「経験読者」というのは「あ、それ、わかる、わかる」とうなずくような態度です。
じぶんの経験と帳尻合わせをするわけです。
「モデル読者」は、記号学にのっとって客観的に作品をみつめる姿勢をいいます。
歌会などで、「うん、よくわかったから一票いれました」というコメントは、
まさに「経験読者」です。
そういうひとの集まりの歌会では、
メンバーに迎合したわかりやすい歌をつくればいいので、
あまり勉強にはなりません。ざんねんながら、これは本筋ではないのです。
では、「モデル読者」的な読み方とはどういうものか。
まず、言語というやっかいなものの本質は、過不足なく語ることができない、
という事情をふまえねばならないわけで、
この性質を、フロイト派のジャック・ラカンは、「根源的疎外」とよびました。
過不足なく語ることができない、ということは、つまり、言い過ぎるか、言い足りないか、
じぶんの気持ちにあったちょうどいいあんばいの言い方はできない、
ということにほかなりません。
それを、べつの角度からかんがえれば、
言語とは、語ったものと同等の語らないものを含む、という見方もできます。
「おじいちゃん、元気で長生きでね」という孫のやさしい一言も、
「おじいちゃんは、元気で長生きできない生き物だ」ということを言外に語っているわけです。
おじいちゃんが何百年も生きていたら気持ちわるいではないですか。
ただ、この「根源的疎外」的要素は、
短歌の世界では(べつに短歌にかぎりませんが)それを、
逆利用することが、むしろ、その真骨頂ともいうべきことになりましょう。
ようするに、過不足なく語ることができないなら、
語らないままに放置して、その語らなかった領域を読者にゆだねる、という仕方です。
わたしは放置という言葉をつかいましたが、この放置こそ文学的な見せ所なのです。
「いやぁ、今日はちゃんと歯も磨いてきたよ」と言えば、
このひとのふだんの俗悪な行いを吟味できるわけで、
それと類比的に言外に込められた意味をすくい取る、
これこそが「モデル読者」としての立ち位置です。
このように言葉の裏側には、われわれが容易に想像できる、語っていない領域があって、
その語らない空間を、ソシュールという言語学者は、記号内容、シニフィエと呼びました。
言葉にはかならずこのシニフィエ領域があります。この領域を読者は、読み解き、楽しむのです。
わたしは、わたしの弟子筋に短歌とは「どう詠むか」ではなく「どう詠まないか」だと語っています。
つまり、シニフィエ領域にどれだけ息を吹き込むか、ということです。
短歌はプレゼントです。開ける楽しみは読者にゆだねるのです。
贈る本人が「これ、広島の桐葉菓、おいしいのよ」なんてひとに手渡したら、
その紙包みをあける楽しみは封印されます。
「なんだろう」って紙を開けるそのプロセスこそ贈与の悦楽ではないでしょうか。
川端康成の小説に『バッタと鈴虫』という小品がありますが、
少年が「バッタだよ、ほしいもの」と言う。
「バッタだよ」「いいから頂戴!」男の子は、それ! と渡す。
「あら! 鈴虫だわ。バッタじゃなくってよ」と女の子は眼を輝かせた。
子供達は、羨ましそうにして、女の子は虫籠に虫を放した。
「ああ、鈴虫だよ。」男の子は呟ぶやき、女の子の顔を見た。
この少年は、ハナから鈴虫だとわかっていたのに、
わざわざバッタという兵隊さんのくらいの低いものを名指し、
じぶんの好きな女の子に、高級な鈴虫、その発見の喜びを譲渡する。
発見の「眼の輝き」は送られた相手、つまり読者にゆだねるものなのです。
この少年の女の子にしたように。
以前、ある方の作品の下の句で「家族旅行たのしさ満喫」というくだりがあって、
わたしはその下の句を指摘したのですが、
その方は「わたしは、これが言いたくって書いたのです」と叱責されたことがありました。
しかし、やはり、言いたいことは言わない、
という姿勢が読者を必要とする文芸の本筋だとおもうのです。
そこで、読者は、作品にふれ、その作品からじゆうな想像の世界を羽ばたくのです。
それを「読者の主体的介入」といいます。
「読者の主体的介入」を可能にさせたのは、読者に主題を手渡したからなのです。
もちろん、わたしがすべてに「モデル読者」としてものを申すことができるかと言えば、
それは傲岸な物言いです。
が、できるかぎり、その姿勢に近づこうと僭越ながら歌評をもうしあげるという所存であります。
了