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コロナ禍におもうこと

 コビット18、コロナの死者数がアメリカは

50万人を超え、江戸川区の人口を越してしまったけれど、

すでにワクチンは完備され、

かんたんな手続きで、まるでドライブスルーの感覚で

その摂取ができるようになったと聞く。

 

 いまの段階で約6割のひとが

摂取を完了し、2回目がはじまったという。

 

 が、わが国はどうかといえば、

まだ数パーセントの高齢者がようやく

摂取しはじめたところである。

 

 ワクチン後進国といわれても

とうぜんのことである。

 

 いまからおもえば、

いらないマスクを配る前に

ワクチンの開発に勢力をついやしてもらえれば

こんな騒ぎにはならなかったはずである。

 

宝島社が

「このままじゃ政治に殺される」

という広告を出して話題になっているが

御意である。

 

しかし、宝島社のアジテートは

つぎに代わる政権、

オルタナティブツールを求めようとする

エネルギーまでを有していない。

 

では、それは政権交代を期待する

発言であったか、といえば、

そうではなく、むしろ、

あのコマーシャルは、読み方によっては、

与党批判ではなく、政権にたいする応援とも

とれるではないか。

 

しっかりやってください、という

強いメッセージとも受け取れるのである。

 

 けっきょく、

わたしたちは、いま「なにをしたらいいか

わからない」という状態になっているのだ。

 

とにかく、手を洗ってマスクをしましょう。

その程度である。

 

 

緊急事態宣言がだされても、

ひとびとは、繁華街にあつまる。

 

なぜ、緊急事態宣言を

前へならえ、忠実に守れないのか。

 

 

それは、国に的確なビジョンがないからである。

 

このように生活をし、このようにしてくれれば、

かならずコロナは沈静します、という

力強いコメントがいっさいなされないからである。

 

アメリカは、すべての公営施設を一年間

停止した。だから、いま現在、ほとんどの

施設が開放され、マスクもしなくてもいいらしい。

 

エライ人たちに、おーい、あんたら聴いてんのかいって

言いたくもなるよね。

 

 

つまり、緊急事態宣言にもしたがえない国民が

うろうろしているということは、

わたしたちのほとんどが、思考停止におちいっている

ということにほかならないのである。

 

国からどうしろとも言われないし、

だれからも教えを受けられない。

 

岸田秀というひとが、唯幻論のなかで、

わたしたちの日常で起こっていることは、

ほとんどそのままカタチで国家レベルで再演されている、

と語っているが、この思考停止は、

ひょっとすると国家レベルでも再演されているのかもしれない。

 

 

歴史のなかで、国民的思考停止を

経験したのは、世界大恐慌の時代である。

いわゆる、ハイパーインフレがおき、

いくら紙幣をもっていても、なんにも買えない、

つまり、国民総貧困化の状態になったときである。

 

そのときは、人びとにはくしくも自由があたえられ、

好きになんでもしていいよっという時代でもあった。

 

が、自由を得られた国民は、気が付くと、

まわりに仲間がひとりとていなくなったという

こんどは、精神的貧困さも受け止めねばならなくなる。

 

つらい世の中では、人びとは手を携えて

がんばってきたけれど、いざ、自由を

得られれば、人びとは好き勝手に生きるに

決まっている。

 

 

 

経済的困窮と精神的圧迫、このフラストレーションには、

いつも「なぜ?」が付きまとった。

 

じぶんには、なにひとつ悪いことがないのに、

わたしのせいではないのに、なぜこのような

不幸になったのか。

 

この疎外感と脱力感を人びとは受け止めることが

できなくなったのだ。

 

「なぜ?」

 

そういうときに、だれしもが

なにか強い権力にすがろうとするようになるのである。

 

 

そこに現れたのがヒトラーである。

 

へぇ、なんでも、かれに従っていれば、

ドイツをよくしてくれるようだ、

という考量が人びとのなかに巣食うと、

ひとはみずからの意思を捨て、

そのひと、ひとりの思想にすがるようになる。

 

これが全体主義への構図であり、

フロイト派のエーリヒ・フロムが

コンセプシャルワークとして

提唱した「権威主義的パーソナリティ―」の

概要である。

 

国民的思考停止は

ヒトラーやムッソリーニのような

全体主義を産んでゆく入り口なのである。

 

つまり、われわれは、全体主義の国家になる

入り口、スタートラインに立っているのだ。

 

が、幸か不幸か、この国は

その全体主義になる方向にはすすんでいない。

その可能性すらみられない。

 

なぜか。

 

すこぶる簡単なことである。

 

リーダーがいないからである。