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自由とは

いまさら自由なんてもちだすのも

どうかとおもうが、「自由」という語が

いまだに存在するということは、

われわれには完全なる「自由」が

手渡されていないということを

吟味しているわけだ。

 

はたして自由とはなんだろう。

 

アルノルト・ゲーレンというひとは

「人が自由でいるときは制度に隷属している」と

語ったが、ゲーレンは、ニンゲンという未熟な

生き物は、他からのインストールがなければ

社会に存在できないと言った。

そのインストールが「制度」なのだ。

裸足で歩くことはできなし、着物を着なければ

生きていけない、力もなければ、

飛ぶこともできない、いわゆるネオテニィ―な

生物は、文化や制度が不可欠なのだ。

 

「自由」という語にはたぶんな意味が含まれている。

フランス革命も「自由・平等・友愛」であって、

あの自由は、専制政治からの解放を意味するのだろうが、

ゲーレンの語る自由とは意味合いがちがっていよう。

 

ちなみに、フランス革命は、他国からずいぶん

尊敬されたようだが、内実は、

価値観をともにするひとたちの「自由」であり、

「平等」「友愛」であって、

国内にいた労働階級のアラブのひとたちには

けっして目がむけられていなかった

事実をおもえば、フランス革命は

単に民族を二分しただけである、

という見方もできる。

 

レヴィストロースというひとは、

フランス革命は

失敗のはじまりだと言ってのけたのも

そのへんの事情にゆらいする。

 

20世紀に入ってヨーロッパでは、

自由がさかんに謳歌されることになったが、

人びとに自由が譲渡されたと同時に

周りを見渡すと、趣味を同じゅうするひとが

ひとりもいなくなり、けっきょく孤独に陥ることになった。

 

つらい世の中だと、「あいつ、ひどいなぁ」とか

権力のあるものへの不平を、みなが集まって

こそこそわいわいできたのだが、

そんなことがいらなくなる世の中だと、

みながバラバラになってゆくことに

おのず気付くのである。

 

国内を団結させるのには、

仮想敵国をつくることが早計な手段なのだが、

国内でも、だれかを敵にすれば

まわりは強固になる。

 

韓国が仮想敵としてわが国を選んだことを

おもえば、容易にわかることである。

 

それほど、韓国の内情は不安定だという

証左にもなろう。

 

自由を手にした欧州のひとたちが、

ぎゃくにそこに不幸を感じてしまう

その裏側に「じぶんのせいじゃないじゃん」という

気持ちが湧いてくることになる。

 

そこへ、泣きっ面に蜂、ハイパーインフレが起きてしまう。

1929年の、世界大恐慌である。

 

10万円持っていても、アイスクリームしか買えない。

それって、ただの貧乏である。

この貧乏だって「じぶんのせいじゃないじゃん」という

気持ちだ。

 

つまり、不幸を受け容れられない階層が

ヨーロッパには大勢生産されたのだ。

 

「じぶんのせいじゃないのに」不幸になったとき、

だいたいのひとが思考停止に陥る。

 

はっきりした理由が見つからないからである。

 

いまのコロナ禍も、われわれは思考停止になりがちである。

じぶんのせいじゃないからね。

 

そんな思考停止の間隙をぬって現れるのが

ヒトラーやムソリーニである。

 

いわゆる全体主義の誕生である。

 

「あのひとについてゆけば、

ひょっとするとドイツがよくなるかもしれない」

 

ま、これは、エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』の

請け合いだから、ご存じのかたも多くいるだろう。

 

ようするに「自由」というものは

けっきょく大量虐殺、ジェノサイドの引き金にも

なりかねないのである。

 

 

阿久悠というひとが『普段着のファミリー』で

「『自由』とは、他人の自由を奪う自由という意味で、

戦後日本人の実践した自由はこれだけである」と語るが、

たしかに妥当してはいるが、他人の自由とは何か、

ということにまで泉下の作詞家は語っていない。

 

しかし、すくなくとも、

阿久の見方は、道徳意識の低下した、感情劣化した日本人の

ひとつの分節のしかたなのだろう。

 

では、現代の自由とはいかなるものか。

 

たしかに、言論も自由だし、

好き勝手に政府を批判できるし、

街も、迷惑のかからない程度なら闊歩できる。

 

もちろん、義務を果たして、という

エクスキューズがつくけれども。

 

ただ、資本主義にどっぷり漬かってしまった

われわれは、ただ、そのポジションを取ることに

専念するようになった。

 

いい学校にはいり、いい就職をし、いい家庭をもち、

そこそこの賃金で、そこそこの生活をする。

 

これは、親でも子でも、おんなじ価値観のようだ。

 

貧乏でもたのしければいい、

という幸福論で生きているひとは稀有である。

 

ポジションを取りに行くという考量は、

それは価値観の一元化という図式である。

 

金持ちがすばらしい。健康がなによりだ。

大臣はえらい。

 

価値の一元化は、ひとをやはり思考停止に

おとしいれる。

 

野山にまじりて動物たちと暮らす、

そんなやつは皆無である。

 

資本主義はわれわれの生活を強いたのだ。

 

だから、資本主義のなかの自由とは、

一元化された価値観のフレームワークの中で、

どれだけその枠に適応して生きるかという

コスパのなかに存在する。

 

ミクロコスモスのなかの自由。

 

なんか、ものすごくそれって

不自由に感じるけれども、

だからいまの若い人に夢などもっているひとは

少ない。

 

夢をもっても実現できそうにないからである。

 

そんな荒涼とした世の中に

こびりついているのが「学歴社会」という

創痕なのだ。

 

つまり、われわれは社会に支配されている。

それは、ミッシェル・フーコーの言う、

監獄理論なのだが、もちろん、

フーコーは学歴社会などしらないけれど、

今の世のかな、けっきょく、

さもしい枠内の自由しか、われわれには

与えられていないのではないだろうか。

 

そうやっておもえば、

「人が自由でいるときは制度に隷属している」

ゲーレンの言説に、永劫回帰してくるのである。