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男女平等と鳥居

 男女平等と言われてずいぶん経つ。

ジェンダーなんていう新語もすでに

錆びついてきた。

 

 男女平等という言葉があるということは

世の中、男女平等ではないということを

吟味していることにほかならない。

 

 そももそ、男女は男女であって、

べつべつの生き物である。

 

 それを平等にあつかうのには

ほんとうは無理があるのだとおもう。

 

 人権、という概念からすれば、

おんなじでいいだろう。

 

 しかし、いまじゃ「男らしく」とか

「女らしく」という言い回しも眉をひそめるお歴々もいる。

 

 わたしは、いいじゃないか「男らしく」と

おもっている。

 

「おれは男だ」なんて映画どうなってしまうか。

「おれはにんげんだ」じゃ、カタチにならないだろう。

 

 ふうてんの寅さんはやはり男でないと。

 

 釣りバカ日誌も、ハマちゃんじゃないと。

 

 おしんはやはり女の子でないと。

 

それぞれ、男と女には役目というものがある。

それをわきまえて男女平等と言えば、まだ納得するが、

すべてにおいて平等かというと「え」ってなってしまう。

 

 風呂もトイレも平等に一緒ならまだわかるが

なんで別々なのだ。

 

 抱くといえば男だし、抱かれると言えば女と

相場はきまってはいやしないか。

 能動と受動の関係はぬぐいきれないだろう。

 

 そこで、あえて言うのだが、

男は、ロマンチストであり、女はノスタルジックである、

と、わたしはそう言いたい。

 

 男は、明日どうしようという考量をもつ。

成功を夢見て企業するひともいるだろう。

 

 しかし、女性は、これは偏見もずいぶんあるが、

過去を見る生き物である。

 

「あのとき、ああすればよかったのよ」

 

なんどもわたしは言われてきたフレーズだ。

 

そう、あのとき、ああすればよかったかもしれない。

御意である。

が、あのときああしなかったから、いまこうなっているのである。

 

いまさら、後の祭りではないか。

 

あのときああすればよかった、という言説は

たしかにただしい。ただしいけれども、

それは間違いなのだ。

なぜなら、いまさらどうすることもできないからである。

 

男は、あのときああだったから、

あしたはこうしましょうよ、と言われることを期待するが、

そんな回答を女性からもらったことはない。

 

 

あのとき、ああすればよかった、には

間違いが含まれないだけに、それを言い放つ女性には、

おそらく有能感が生まれることだろう。

 

なぜなら、間違っていないからだ。

 

しかし、それが間違いである証左は、

男を返答不能にさせるところである。

 

過去に戻れない限り、取り返しのつかぬことを

あとから言われてもしかたないことである。

 

そういう返答不能な状態にすることを、わたしたちは「呪い」とよぶ。

 

「呪い」とはそんなふうに

ひとを窮地においやるところに発生する。

 

「お前は、この学校をどうおもっているんだ」

 

「ねえ、わたしのこと、どうおもってる?」

 

これはみんな呪いである。

答えられないではないか。

 

 

過去を見つめてこうすればよかった、

という言い方は、いまのテレビの

コメンテータをみてもわかる。

 

「いや、このやりかたはまずいですね」

とか、識者は言うだろうが、

「今後、こうしたらどうでしょう」

という、三歩先の未来を語るひとを

わたしは見たことがない。

 

すべて、過去完了形のコメントである。

 

これは、男女のもんだいではなく、

そのひとの資質にかかわるから閑話休題ということで。

 

 

話をもとにもどすが、

つまり、男女は別ものなのである。

 

平等でもいいが、同質ではない、ということを

しっかりとわきまえて平等と高らかにうたえばよいだろう。

 

しかし、男女平等と

声高に叫んでいるいじょう、男女平等の社会は

訪れることがないような気がする。

 

 男女平等の社会が実現されないのなら、

男女不平等の社会でどう生きるべきかを

論じる方が建設的な気もするのだが。

 

ジェンダー論を唱えているひとのなかには、

すでに「平等」の社会はあり得ないと内面ではしりつつ、

認知的斉合性が働いて、つまり、気づかないふりを

無意識のうちにしていて、平等社会をうったえることによって

みずからの立ち位置を担保しているひとが

いるのじゃないかと勘繰りたくもなるのである。

 

 

 

 

神社の鳥居はいつか訪れるだろう鳳凰を待って

門前に立てている止まり木なのだが、

「男女平等」という語は神社の鳥居、

止まり木とおんなじように、

いつか来るだろう「平等」の社会を待ち続けているように

見えるのだ。

 

いつまで経っても鶏はやってきはしない。