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ポピュリズム的な話

 地域教育連絡協議会に出席したときである。

当時のPTA会長もいらしたので、わたしは進言した。

 

「入学式など、校門で出迎えに保護者の方とか

ほんの二、三人出られないですかね。

せっかくの新入生の親御さんが来ていても、

だれもいない校門をくぐるのは

さびしくないですか。

三十分交代でもいいから」

と、わたしには、とうぜんで、いわゆるおもてなし、

ここのPTAはこういうふうに

歓待してくれているんだ、ということを

新入生のご父母が感じ取ってもらうだけでも、

ずいぶんちがった印象ではないかとおもい、

そう発言した。

 

ところが、会長さんはふるえながら言下にこういった。

 

「できませんね。この場で言うことですか」

 

「怒ってらっしゃるんですか」

 

「怒りますよ。いいですか、いまの時代、

共稼ぎがあたりまえで、そんな忙しいなかを

PTA活動しているんです。そんな時間ありませんね。

どうしてあなたがそんなこと言うんですかね」

 

「PTA顧問として発言していますけれども」

 

「顧問の制度もやめようとおもってるんですよ」

 

たしかに、かれは、PTAの新聞も廃刊し、

いろいろな行事も中止にし、仕事量を極端に減らそうと

していることは仄聞していた。

 

まだ、そのすべては実現してはいないけれども。

 

顧問制度を廃止することが、わずか数年の

PTA会長の裁量なのかどうかはすこぶる疑問であるが、

かれは、つづけた。

 

「こういう時代ですから、なるべく仕事は

減らしていかないと」

 

 わたしどもは黙らざるをえなかった。

それは、主語がみずからよりも大きかったからだ。

 

等身大より大きな主語で語られると

ひとは身動きできなくなる。

 

「時代は・・」

 

「いまの時代が・・」

 

「世界は・・」

 

という言い方である。

 

「わたしはこうおもいます」

と、「わたし」で語られると、いや、「わたしはそうではなく」と

おんなじ地平で語ることができるが、

「時代は」「世界は」と大上段に語られると、こちらは出る幕がなくなる。

 

返答不能な状態だ。

 

返答不能な状態に陥れることを「呪い」というが、

マクロコスモスな主語はひとを呪いにかけるのだ。

 

ほんとうにかれに時代が分かっているのだろうか。

 

 

もし、ほんとうに「いまの時代」がわかっていたなら、

株でもやって一儲けすればいいのである。

 

我われには、「いまの時代」がわからないから、

ぎゃくにおもしろいし、あるいは恐ろしいのだ。

 

「いまの時代」がわかるのは数年経ってから、

事後的に、ああ、あの時はああだったんだ、と

過去を想起するしか「いまの時代」はわからないのではないかと、

わたしはそうおもう。

 

こういうふうに、大きな主語で語るのは

いわゆるアジテートであり、

ポピュリズムの兆候なのである。

 

アドルフ・ヒトラーとおんなじなのだ。

 

ポピュリズム、大衆扇動主義の語りは、

みずからを主語とせず、世界は、とか、時代は、

という膨大なつかみどころのないものを主語に立てる。

 

あの会長の発言もおんなじだ。

 

だから、あの当時の役員さんは「こんどの会長さんは・・」と

すこぶる人気があったようだ。

 

ようするに語法による刷り込みにまんまとひっかかったのである。

 

主語の大きさはすべてを黙らせ、下々を従わせるのである。

 

 

むかしの話である。

妻の実家で、カレーをつくった。

 

まだ、グラムマサラもいれないで、

ポキポキとルーを折っていれる

インスタントではあるが、

たまねぎをこってりするまで炒め、牛肉だけの

ホテルででるようなカレーをめざし調理していた。

 

と、義母が鍋をのぞいておっしゃった。

 

「じゃがいもとニンジンいれるとおいしいですよ」

 

たしかに、家庭のカレーはそんなものを

混入させるのだろう、だれでもが了解していることである。

 

が、わたしは、ホテルのカレーが食べたいし、

母にもその味をあじわってもらおうと魂胆していたのだ。

 

「はい、でも、きょうはいれないつもりです」

 

「いえ、いれたほうがおいしいですよ」

 

聞き入れてくれない。で、わたしは一歩下がって、

いわゆる譲歩逆接でもうしあげた。

 

「はい、いれておいしくなることは知っています。

でも、きょういれないつもりです」

 

と、母はひとことこう言った。

 

「徳島では入れる」