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映画のタイトル

 映画のタイトルも昭和のころは、

「慕情」とか「大脱走」とか「風と共に去りぬ」とか、

邦題がちゃんとついていたが、さいきんは、

そのまま、というものが増えた。

 

 

「ゴールデン・サークル」とか

「ネイビーシールズ」とか「キングスマン、ゴールデン・サークル」とか

タイトルだけを聞いても見ても、なんのこっちゃろな、

というものが多い。

 

 前にも申し上げたが、明治の初期は、

西周や大隈重信らの識者たちによって、

外来語を和語になおす営みがエンエンと繰り広げられた。

 

 西周の造語では、

「哲学・主観・客観・概念・命題・肯定

否定・理性・悟性・現象・芸術・技術」など

枚挙にいとまない。

 

 が、どうも、いまの外来語は、

それに該当する適当な日本語語彙がないのではないだろうか。

 

 アイデンティティを自己同一性とか自我とかに

直すけれども、ほんとうにそれらが原語と一致するかと

いえば、わからない。

 

 じっさい、西周の造語にしても、

すべてを言い得ていたかといえば、

いまとなってはよくわからないけれども、

すくなくとも、氏の造語は人口にカイシャして、

一般の日本語のなかに、すっかり浸透していることは間違いない。

 

 ソサイエティを「社会」、

インディビジュアルを「個人」と

訳した人物はだれかはぞんじあげないが、

すっかりわが国に定着しているわけで、

そういう語彙が今後作られる可能性は

ほとんど期待できないだろう。

 

 

 むかし、国電がJRになったころ、それにちなんだキャッチフレーズを

募集したところ、審査委員長の小林亜星が決定した

ネーミングが「E電」であったが、渋谷の駅の片隅に

このあいだまで「E電」の小さな看板があったが、

だれひとり、「E電」なんて言っているひとはいない。

 

 つまり、広まらない語彙もあるのである。

 

高度資本主義にあって、諸外国といやがうえにも、

つきあわねばならない現代人は、すべて「和語」でゆく、

ということには限界がきているのだろう。

 

たとえば、グローバル化という語があるが、

これも日本語に変換しづらい。

 

 グローバル化とは、

国家の地域というタテ割りの境界を越え、

地球がひとつの単位となる変動の過程を

そう呼ぶのだが、では、グローバル化を一語に

直すとすればなにか、と言われれば、

首をひねってしまう。

 

おそらく、この作業はE電の二の舞を踏むことになろう。

 

 ようするに、すでに日本語にはない概念が街に蔓延している、

ということなのだ。

 

 しかし、日本語に変換できることがどれほど

意義のあることか、と言われれば、それにどれだけ反論できるかは、

自信のないところではあるが、すくなくとも、和語化できるということは、

地に足のついた概念ということになるはずなのである。

 

 

 システムという語がある。

 

 これも邦訳しづらい。

「仕組み」「構造」「体系」「組織」

 

うーん、なんかぴんとこない。

 

ところが、われわれは、この高度資本主義の

システムのなかに組み込まれて生きている。

 

 ようするに、「システム」という、

じつはよくわかっていない「なにか」のなかに

身を置いて、そこで暮らしているのである。

 

 江戸時代には、自我という語もなければ、

宗教という語も体系も主義もなかった。

 

 しかし、その時代は、時代の要請により、

地にしっかり足をつけて、農業も、商業も

営んでいたはずである。暮らしがあったのだ。

 

 が、いまは、日本語にならない、

あるいは、なりにくい「なにか」によって

われわれは生きなくてはならない。

 

 その「なにか」はわれわれになにかを

要請しているかもしれないが、

それより、むしろ、その「なにか」という

得体の知れぬもののなかにこちらから出向いて、

よくわからないまま生きている、

という時代なのではないだろうか。

 

 地に足がついていないのである。

 地に足がついていない、という事況は

暮らす、という実感のない生活である。

暮らすという語に含まれている意味合いは、

しっかり地面に着地して、なにかを作り、

なにかを祈り、生きるという実感である。

 

 すくなくとも、システムを内在化した

われわれは、そういう、有機的な暮らしより、

頭だけをつかった、いわゆる脳化身体として

生きているのである。

 

 

 こういう脳化した身体を「社会的身体」とよぶ。

 

養老孟司は「社会的身体」について

「ある特定の文化において

意識される身体であり、社会システムの要請による

整合性から生じる」脳化身体という概念を提起しているが、

「社会的身体」を、いやがうえにも身にまとってしまった

われわれは、ほんとうの意味での「生きる」ことを

どこか棚の上に抛り投げて生きているのかもしれない。

 

 

 やはり、日本人には、日本人にしかわからない

情緒的なものがあるはずで、それが、システムという語によって、

あるいは、日本語にならない語彙によって、崩壊させられて

いるような気がするのだ。

 

 年末の、お笑い番組で、黒人の真似をしたことで、

怒り心頭に発した外国人が、ネットで鼻息荒く抗議したが、

わが国では、だれひとり、あれを人種差別となんかおもっていない。

 

 グローバルスンダードという物差しで、

それを見れば、人種差別にもなるだろうが、ことわが国では、

そういう意識は皆無である。そして、それを

文化の遅れと言われることもお門違いである。

 

 グローバルスタンダードで必要なことは、

共通の価値観ではなく、各国における価値観の相違を

認識、理解することなのである。

 

 しかし、そういうかんがえも、いまでは時代錯誤と言われるのだろう。

 

でも、時代錯誤でもいいけれど、のんびりとお茶でも飲みながら、

縁側で日向ぼっこという暮らしができないものかと、

このごろつくづくおもうのである。

 

 

 海外の映画でもいいが、それを見ながらのんびりも、

それもオツである。

 

 そういえば、ジョージクルーニーの映画で、

邦訳のついた痛快な映画があった。

 

タイトルは、「The Men Who Stare at Goats」

 

これの邦訳は

「ヤギと男と男と壁と」

 

うん、素敵だ。