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いわし雲

 鰯雲人に告ぐべきことならず

 

人間探求派、加藤楸邨の俳句。

 

秋の蒼穹にきらびやかにたなびく鰯雲。

その心の揺れは、人に告ぐべきことではない、

いや、むしろ、それを語ることができない、

という意味合いをこめて、加藤楸邨は詠んだのだろう。

 

人に告ぐべきことならずといいながら、

人に告げているところのパラドクスは、

心地よく読者の心に届くことだろうし、

言語とは過不足なく語ることができない、

ということをじゅうにぶんに示唆している。

 

ジャック・ラカンというひとは、

この過不足なく語ることができない

言語の性質を「根源的疎外」と呼んだが、

言語の発生以来、歴史的に、過不足なく語れた人物は、

シェークスピアも、ダンテも、魯迅も、村上春樹も

だれひとりいなかったわけである。

 

 対象にたいして、語りはじめると、

語りすぎたり、語り足りなかったり、

かならずそうなってしまう。

 

 あるものを見て、あるひとは長方形だといい、

あるひとは、それを丸だという。

 

 じつは、それは茶筒で、どの方向から見るかで、

すっかり様相がちがうのは、とうぜん、

分節のしかたによって書き方が変わってくるし、

どこに着目するかでも、まったく違うものが

できあがってしまう。

 

 以前、ブログに書いたことだが、

わたしが高校生のときは、街にやたら高校生がいるなと、

おもっていたが、いざ、結婚して、子どもができ、

ベビーカーを押していると、やたらと、

ベビーカーを押しているひとを見かける。

 

 つまり、じぶんの置かれている状況によって、

街の様相はかわるということである。

 

 だから、わたしは「街は鏡だ」と

もうしあげたことがあった。

 

 じぶんとおんなじ立場の、

いわゆる世間におけるおんなじ位置の、

ものや人にじぶんのフォーカスが合うということなのである。

 

 ぎゃくに、ヴァィスゲルバーは、

個人によって言い方や見方が違うのは、

「精神の中間世界」によってであると論破する。

 

「精神の中間世界」とは、世界と人間のあいだに

たちはだかって独自の世界をつくるものらしい。

 

 ル・シアンというフランス語は、犬のことだが、

日本語の「犬」とは、おそらく「精神の中間世界」が

ちがっているから、まったくべつの生き物に

見えていることだろう。

 

 つまり、過不足なく語ることができないうえに、

このような分節のしかたで、個々に相違があるから、

言語で相手に訴えかけても、まず、ほとんど

通じないと言ってもよい。

 

 モーリスブランショは、

出来事は言語化されたときに、

その本質的な他者性を失って

「既知」の無害で、なじみ深く、

馴致された「経験」に縮減される、

と語ったが、けっきょく言語化は、

だれでも知っている、だれもが使っている

言語に落ち着くということで、

だれでも知っている、だれもが使っている

言語は、すでにじぶんの言語ではない、

ということなのだ。

 

 じぶんの言語ではない、ということは、

すでに、過不足なく語ることができていない、

ということとおんなじなのである。

 

 

 では、こういった言語の性質を

諦念をもってうけとめるのか、

といえば、そうではない。

 

むしろ、この性質をうまく使いこなせばいい。

 

 どうせ語りつくせないなら、

語りつくさないまま、放り投げる、というやり方である。

 

もちろん、放り投げるのにも

ちゃんとルールに則って、読者の存在を意識しながら、

真摯な筆遣いで書きはじめる。

 

 と、読者は、書き手がなにを言いたいのか、

言われていなかった空白を埋めたり、

言い過ぎた箇所をけずったりしながら、

読みすすめてくれるはずである。

 

 これをリテラシーと呼んでいる。

 

ようするに、書き手と読み手は、

根源的疎外にある言語で、足したり減らしたりしながら、

対話的なしかたで、想像力を発揮しながら、共同作業をするのである。

 そこに文学がある、とわたしはそうおもう。

 

 

すべて過不足なく語ることができたら、

この文学の楽しみはゼロである。

 

こういうしかたで、エンエン1700年も

言語活動はつづけられてきたのだとおもう。

 

 

 鰯雲の美しさは作者が告げずに、

読者が個々に想像すればいいのである。

 

 

 しかし、さいきん、街で年寄りが多いなあと

つくづく感じるのだが、それってもしかすると。