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健全

信じる、信じないはまったく
べつの次元として、にんげんの脳の右側は、
感性の領野である。その感性の領野をつたわって、
左半身は、その影響をうける。

 信じる、信じないはべつとして、
だから、左手には、「なにか」を見る力が
だれにもあるはずである。

 この「なにか」はじつにかそけき信号で、
だいたいのひとは、その信号を読み解かずに、
放置しているにすぎない。

 わたしは、ある女性から、その感知のしかたを
教わっていらい、よくひとを見るようになっていった。

 まだ、高校の教員だったころ、
だいたいは遊び程度で休み時間に、
わたしの「なにか」を楽しみ生徒が集まったものだ。

 それを、宗教と、揶揄なのか、批判なのか、言う教員もいた。
どうでもいいことだ。

 放課後、わたしは、アリサから頼まれて、
ひとりの男子生徒を見た。

 左肩のうしろに霊道があるので、
そこに触れると「なにか」からの声が聞こえる。

 かれの後ろには、亡くなった女の教師がいて、
しきりに「湖には行くな」と言っているようだった。

 「なんか、湖には行くなって言っているよ、女のひとが」
と、わたしが言うと、
かれは、まったくの唐突な話に、
なんのことかわからないで帰っていった。

 翌日、職員室にわたし宛に電話があった。
かれの母親からである。

わたしは、まずいとおもった。

息子にへんなこと言わないでくれという
クレームの電話だとおもったからである。

電話を取ると、
「じつは、息子にはまだ言っていないのだが、
夏休みに山中湖に行く予定があるんですが、
それは、中止にしたほうがいいでしょうか」
という、問い合わせだったのだ。
「息子の大好きな小学校二年生の女の先生が
亡くなっていて、たぶんその方が教えてくれて
いるんだとおもいます」
というのである。

 わたしは、じぶんでじぶんに驚いて、
ただ、後ろから聞こえてくる声を
復唱しただけだから、湖に行く、行かないの
裁量権はまったく持ち合わせていないのである。

 だから、わたしは、丁重に
「おそらく、水の上に行かなければ、
そのご旅行は行かれていいのではないか」と
答えたのだが、この発言には後ろの声が
聞こえていないので、あんまり正しいかどうか、
まったく責任がとれない、というのが事実だった。

 このあいだ、鷺沼で授業する前、
アヤコが「せんせい、わたし一人っ子なんだ」って
言うから、わたしはちょっとニヤッとして
「下にひとりいただろ?」って言ったら、
きゅうに彼女は顔が蒼ざめて、
「え、なんで知ってるの」と目を丸くして驚いていた。
「お母さん、言っていた、下にいたんだって」

 そういうのは、なんとなくわかるものなのである。
それは、だれにもわかるはずだろうが、
その信号に気づかないだけなのだ。


 十一年前、川崎梶ヶ谷で、黒沼由里さん、当時27歳が
通り魔にあって亡くなった事件があった。

 薄暗いトンネルの中の悲劇であった。

 なぜ、薄暗いことを知っているのかと言えば、
わたしは、その事件の翌日にそのトンネルを通ったからだ。

 オレンジ色の灯りが、不吉な雰囲気をかもしている。
亡くなった場所には、無数の花束がつみあげられ、
故人のお人柄をしのばせるものだった。

 わたしは、その場の「なにか」を左手で読んだ。
事件現場というものは、その「なにか」が
残存しているものなのだろう、異様な空気を感じたのだ。

そのとき、わたしは、すこし小太りで背の低い男を見た。

 にんげんは、狐顔と狸顔とに二分されるが、
おそらく、この犯人は、狸顔に属するとおもった。

 ほんの数分しか、そこに居なかったから、
わたしの「なにか」はそこまでである。

 たぶん、犯人はすぐに見つかるだろうとも
おもった。

 が、しかし、犯人はまったく現れず、
迷宮入りかとおもったが、なんと、
つい先日、別件で逮捕されていた、鈴木洋一が、
この事件を認めたという。

 しかし、よく調べ上げたものだと、
警察の根気づよい努力にあたまがさがる。

 ネットに写真が出ていたので、鈴木洋一を見たら、
わたしの想像していた人物よりかは、痩身であったが、
まあ、同類の顔であった。

 服役しているときに痩せたのかもしれない。

 アメリカでは、犯罪捜査にそういう「なにか」を
導入していると聞くが、日本ではまだない。

  警察は、こんなこと信じる、信じない、
いや、信じないに決まっている。
 
 それが健全というものだ。