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おいしさとは

 おいしさには二通りある。

生まれながらに感じているおいしさと、

育った環境によって感じるおいしさである。

 

 じぶんの好き嫌いは、

生まれながらにもっているものと、

育った環境によって培ったものとに

わかれるが、なぜ、生まれながらに

パクチーが食べられないとか、

珈琲は苦手だとかあるのか。

 

生まれながらに備わった

能力や感性を生得的という。

アプリオリといってもいい。

 

先天的などと同義である。

 

それに対して、

生まれ育ったところから得た感覚を

後天的という。

これをアポステリオリという。

 

 つまり、おいしさとは個別性であって、

アプリオリの領域がひろい。

 

 うん、おいしい。

これって親から教わったものではない。

最初からわが身についていたのだ。

 

ということは、おいしさとは遺伝子の領野に

かかわることなのだろう。

 

スピーシーズとしてのサピエンス、つまりニンゲンの

はじまりは50万年前とされている。

 

その50万年から、脈々と引き継がれたものが

遺伝子、DNAである。

 

そのDNAのどこかの遺伝子に「おいしさ」のチップが

あるはずなのだ。

 

だから、はじめて食べた食品でも、

おいしさをつきつめると、

なにか懐かしい味がしたりする。

 

わたしに言わせれば、おいしさの極北は

「うまい」でもなく「おいしい」でもなく、

ましてや「まいうー」でも「やばい」でもなく、

「懐かしい」だとおもうのだ。

 

じぶんのしらなかったじぶんの遺伝子、

そのDNAとはじめて出会った一瞬、それが

ほんとうのおいしさなのである。

 

ようするに、おいしさの追求は

じぶんのDNAさがし、九十九里浜から拾う

一本の釘のようなはてしない行為なのだ。

 

だから、ほんとうにおいしいものに

出会ったときの喜びはひとしお、

はじめて、しらない自分と邂逅したからである。

 

それに対して、アポステリオリな

おいしさは、母がつくってくれていた

出し巻き卵が甘いか、甘くないかで、

決定される。

 

「うちの玉子焼き」という言い方はそれである。

 

 これは、ピエールブルデューの

文化資本に関係する。

 

 文化資本とは、その人にそなわった

資質のすべてをいう。

 

 性情、嗜好、趣味、特技、歩き方から食べ方、

身のこなし方までさまざまだ。

 

 ブルデューが分節する文化資本は

三通りあるが、このうち、家庭で身につくものを

「身体化された文化資本」とよび、

五歳くらいでそれは完結するという。

 

 その五歳くらいまでの身体化された文化資本によって

そのひとの食の嗜好が決定される。

 

 これには遺伝子との関連は希薄なのかもしれない。

「母の味」というのがまさにそれなのだが、

ひさしぶりに食べて「懐かしい」と感じるのは、

母のぬくもりであって、みずからに備わっていた

ものとはちがう。

 

 つまり「脳化」されたおいしさなのだ。

生まれた後に注ぎ込まれたオプションなのである。

 

ちなみに、どちらのおいしさにしろ、もし、

万人、すべてのひとが、これおいしいねって

いう食材があるとすれば、ひょっとすると

すべてのひとの脳の反応する部位は

おなじ個所かもしれないのではないか、

という疑問が生じる。

 もちろん、その部位を特定することは

いまの科学では不可能ではあるが、

おなじ場所ということだけは

言えるのではないだろうか。

もちろん、エビデンスのある話じゃない。

が、これは、クオリア問題の体験質に

かかわる重大なヒントがあるのではないか、

と、わたしはおもう。

 

 クオリア問題の体験質とは、

夕焼けの赤い色をみて、

「きれいだね」って言うのだが、

その赤色は、わたし見ている色と、あなたの見ている色と

はたしておなじかどうか、それを証明することは

できない、というような問題である。

 

が、しかし、おいしさの体験を敷衍すれば、

この体験質に一条のひかりをあたえることに

なるかもしれない、と、ふとおもったのだ。

 

 閑話休題、さて、話をもどすが、

わたしが、話題にしたいおいしさは、

やはりアプリオリな美味感覚であって、

ひとは、知らないじぶんの知らない遺伝子を

探して生きる生き物なのだろう。

 

「母を訪ねて」というのがあるが、

「自分の故郷を訪ね」る食生活ということになる。

 

 東急ハンズに行って、目的なく見て回ることがある。

あれも楽しい。100円ショップもしかり。

 

 あ、この製品、ウチにあるといいかも。

 

 これって、知らなかったじふんの知らないアイテムであり、

東急ハンズに、じぶんの知らない自分のアイテムを教わったことになる。

これも自分探しのリアルな実地の旅である。

 

 余談であるが、

遺伝子にヒットするためには化学調味料ではむりである。

それは脳内コントロールにすぎない。

ひとの肉体の神秘にせまるには、自然の食品がいちばんである。

だしは、かつおと昆布と煮干しのように。

いまの料理の主流が化学調味料である。

だから、おいしいかもしれないが、なにか「ちがう」のだ。

そのおいしさは人工的であって

ひとのDNAに届いていない。

 

ピーター・ティールというひとは

ニンゲンは「くず」である。

だから、「くず」には「くず」の幸福論があるといって、

ポリネシアに国家をつくっている。

そこの幸せは、ドラッグとゲームからなる。

ひとは、ドラッグとゲームさえしていれば

脳内コントロールでじゅうぶん幸福を味わえると言うのだ。

これは、食品の化学調味料の方法論と

どこかで共通する。

 

きみが不幸なのは、飲んでいる薬が悪いんだよ、

やっているゲームがちがうのだ、

という寸法だ。

 

 それって本当の幸せなのだろうか。

 

 

「おい。このラーメンなにがはいっているんだよ。

また、食べたくなるんだよ」

というお客様がいらした。

 

 まさに、DNAとヒットした瞬間である。

 

 宇宙のなかから見つけたひとつの惑星、

じぶんだけの星、

それがおいしさである。

それも自然のものをふんだんに使った食品である。

それを見つけたら、

また、その星に、その店に行きたくなる。

 

 その感覚は、その店でしか逢うことができないからだ。

 

そして、それをひとは「後を引く」と呼んでいる。