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道徳教育にもの申す

 小学校の教科として「道徳」がくわわった。

たしか3年前である。

 わたしはそれを聞いてびっくりしたものだ。

 

「道徳」なんて家庭で教えるものではないかと。

 

人格形成には三通りあって、

家庭で身に着けるもの、学校などの教育機関で身に着けるもの、

あるいは、芸術などから影響をうけるもの、

の三通りである。

 

どちらも、いわゆる教え込むというのより、

感染してゆくというカタチで身につくものである。

 

もちろん、食事中に立ち歩くな、とか、

箸はこう持ちなさいとか、教えなければならないことも

多々あるが、やはり、その場で、ああ、そういう仕方がひとの

生きる道なのだ、と身に着けてゆくものが多いだろう。

 

それが「ミメイシス」である。

 

ピエール・ブルデューは

家庭で身に着けるものを「身体化された文化資本」

学校を「制度化された文化資本」

芸術を「客体化された文化資本」に分節したが、

こと道徳は、身体化された文化資本のはずであった。

 

それが学校教育にはさまってきたということは、

文科省も、家庭のアノミー化を懸念してきた、

ということに他ならない。

 

アノミー、感情の劣化といってもいい、

食事中に立ち歩いているわが子をみて

「元気がいいこと」なんていっている親が

いるから、しつけができないのだ。

 

 

しつけは、ある意味「おしつけ」でいいのである。

 

「ほら、そんなことしていると

よそのおじちゃんに怒られちゃうわよ」

 

じぶんの言葉で怒りなさい。

 

しっかりした家庭で礼節まもり、

暮らしていれば、おのず、ミメイシス、

わが子もそれなりに道徳は身につくはずなのである。

 

そもそも道徳には二つの行き方があるらしい。

 

ひとつは、物語などを見せて、心を洗わせるやり方。

ひとつは、自分の利得を含めたひとの道。

 

この二つは、どちらも道徳にカテゴライズされるのだが、

この二つは、両立しない。

 

物語の主人公のようにじぶんはなれないし、

じぶんの利得を考量したら、物語とちがう行動になるかも

しれないからだ。

 

つまり、道徳教育とは、どこかで矛盾をかかえるものなのだ。

 

もし、道徳を教科としてとりいれれば、

かならず、この矛盾が屹立する。が、

教師は、おそらく、この矛盾を、

さもなかったように授業をするだろう。

 

ひとは、じぶんの都合のわるいことには

見て見ぬふりができる生き物なのだ。

それを認知的斉合性とよぶ。

 

だから、道徳の教育はおそらく

どこの現場でも、ね、こういう行為は

とてもすばらしいですね、とは言えるだろうが、

では、みなさんそうしたらどうでしょう、とは

なかなか言えないのではないか、とおもう。

 

いま、わたしは大学生のたくさんバイトしている

職場に夕方から出講している。

 

が、その大学生は、わたしにむかって

あいさつなどしない。

 

ネグレクトだ。

 

電信柱かポストにしかおもっていないのか、

見えていないのではないかとおもってしまう。

 

が、しかし、それは、しかたないことかもしれない。

 

家庭でも、学校でも、道徳を教えられてこなかった、

「ゆとり」のなれのはてがいま大学生になっているからだ。

 

いや、道徳ではなく、礼儀といったほうがいいだろう。

 

わたしは、学校教育で道徳を教えるという不遜な仕方より、

礼節、礼儀、つまり「礼」を教えるべきだと

せつにおもうのである。