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ほんとうの授業の話をしよう

 いまの若者に必要なのは

ミメイシスとアフォーダンスだと語るのは

宮台信二先生である。

 

 ミメイシスは古代ギリシャの言葉で「感染」と訳すのが良い。

ウィキペディアなどでは「模倣」と誤訳しているが、

「感染」かあるいは「無意識的模倣」が適切である。

 

 知らないうちに、そのもの、その人に影響を受けてしまう。

肌感覚の語彙である。

 

 だからカリスマなどの出現に

しらないうちに傾倒してしまう、

それがミメイシスである。

 

 世の中は、カリスマ的正当性と

伝統的正当性の繰り返しだと説いたのは

マックスウェーバーだが、ウェーバーに従えば、

またいつかカリスマは出現するはずである。

 

 アフォーダンスは

アメリカの学者、J・J・ギブソンの造語である。

 

 物による呼びかけ、食事の動画をみているうち

空腹でもないのに、きゅうにラーメンが食べたくなる、

そういう心の動きをアフォーダンスと呼んだ。

疲れたから椅子に座るのではなく、

椅子に呼び掛けられて座らされた、

とかんがえるのが二十世紀の心理学的思考である。

 

 恋愛もしかり。

相手の、声、しぐさ、かおり、バイブレーションなどによって

恋心が増幅される、というこれも肌感覚の問題である。

 

が、いまの若者はアダルトビデオを見て、

「これが、わたしの理想だ」とかいって

脳内コントロールで処理してしまう。

 

 この図式は、恋愛からの退却を加速されるだけで、

統計的にも、恋人をつくらないひとの多さの

要因を示しているだろう。

 

 目と目をみて相手を知る。

そこに、ミメイシスやアフォーダンスの

入り口がある、と言ってもよい。

 

 大手予備校では、

三大予備校にとってかわって、Tハイスクールが台頭しているが、

あそこは、いわゆる映像授業がメインである。

 

 人件費も削減でき、カリスマ教師が

ペダンチックにポピュリズム、大衆扇動的に授業をすれば、

脳内コントロールされた生徒は定着するだろう。

 

 だが、じつは授業というものは、

目と目を合わせたところに価値がある。

 

 そこに生徒との交流があり、

肌感覚が、ミメイシスや、

アフォーダンスを感じることができるのだ。

 

 そうすると、おのずその教室には

ある「空気」がうまれる。

 

 授業というのは、学問の伝達でも

読解にたいするノウハウでも、

知識の披露でもあるはずなのだが、

もっとも肝要なのは「空気」をつくることなのである。

 

「空気」は生徒にとってコクーンである。

そのコクーンのなかで生徒は

一年間をとおしてはぐくまれ、成長するのだ。

 

だから、体験授業にきた学生の

すこぶる居心地がわるいという感想は

その空気感に浸っていないからである。

 

が、その生徒だって数回の授業によって

みずからもその空気をつくることに参加し、

仲間入りができてくるというものだ。

 

「空気」は教師がつくるものではない、

おたがいの交流によって作り上げるのだ。

 

だから、おんなじ教材でも月曜日の授業と

火曜日の授業とは中身が違う。

 

解答も解説もおんなじではあるが、

空気感がちがうのである。

 

授業とは生徒の伸長だけではない。

生徒の目を見て、生徒のバイブレーションによって、

生徒の反応で、教師もおのず成長するのである。

 

何年、この仕事をしていても、

毎年、教師はこの空気のなかで成長してゆくのである。

 

それが授業の急所であり、この事情を欠いてしまったら、

もっとも崇高なものの消失になる。

 

先生の授業は国語ではなく人生です。

と語ってくれた生徒がいたが、

それはこのコクーンで一年間はぐくまれた成果なのだとおもう。

 

授業にミメイシスやアフォーダンスが

枢要なのは、こういった事情による。

 

映像授業には、このもっとも根本の

もっとも大事な、生徒も教師も人間形成するという

事情が欠落し、脳内のコントロールだけの

イギリスのテート・モダン美術館のような

荒廃したざらざらの表面的な受験生の

再生産におわるのだとわたしはおもう。

 

受験は人づくりである。