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権威づけ

 政治にはあんまり関心がないけれども、

さいきんの政権幹部といったら、

権威的な物言いと言い逃れと

見苦しいったらありゃしないって

だれか言わないのだろうか。

 

 仲がいいならいいって言えば

いいじゃんってわけにもゆかないのだろうか。

 

 そもそも権威づけというものは、

下位のものが上位者を名指すところに

発生する。

 

 もっとも典型的なのがドラマの水戸黄門である。

 

ちなみに、「黄門」とは中国では中納言のこと。

 

水戸光圀は、権中納言だから「黄門様」と

よばれたわけだ。はい、脱線。

 

で、かならず、おわりの数分で、

「控え、控え、頭が高い、この方をどなたと

心得る」なんて、助さんだか角さんだかが

名乗りをあげる。

 

 予定調和の権化のようなドラマなのだが、

あれは、身分下の家来が、黄門様を名指すことに

よって、水戸光圀は権威づけられるのだ。

 

 たとえば、黄門様ご自身が

「わしをだれと心得る」なんていって

三つ葉葵の印籠だしたところで、

「なんだこの爺じぃ」って

ばさりと殺られるかもしれない。

 

むかし、こんな歌をつくった。

 

・  印籠をいつもだすのは角さんであの爺さんたら立ってるだけだ

 

これは、権威付けの社会の構造を

かるいタッチで描こうとした失敗作である。

 

 この歌を、石川幸雄という歌人は、

「あの爺さんたら立ってるだけだ」より前の部分は、

なんでも言えるじゃないかって発言してから、

飲み会はおおいに盛り上がり、

メンバーが、好き勝手に上の句をつくって

わたしの歌がめちゃくちゃにされた覚えがある。

 

 ちなみに、この作品は、互選で「0点」という

わたしにとって前代未聞の結果であった。

 

 

さて、 下位の者が、名指すことによって

そのひとが権威付けられるのは、

結婚式の仲人も、司会が紹介することによってである。

 

「○○会社の取締役としてご活躍で・・」

なんて言われるから、格があがるわけだ。

 

「わたしは、エライんだよ」ってあいさつを

はじめたら、なんだこのひとってことになる。

 

入学式も卒業式も副校長先生が校長先生を

アナウンスするから、校長先生らしく

あいさつができるというものだ。

どんなに話が下手であっても。

 

「わたしが校長でーす」とか

じぶんで言ったら元も子もない。

 

 

じぶんに格をつけるということでは、

とくに短歌の世界では、

こういう歌を作りました、とか、

こういうふうにかんがえています、とか、

そういうことはあまり関係ない。

 

 わたしはだれだれ先生と飲みました、とか、

なんとかさんに会いまして、と、

短歌の世界の有名人と知友である、というのが、

権威付けに有効である。

 

 だいたい大きな賞も、大きな結社の

持ち回りできまるわけだから、

ほんとうに歌のじょうずなひとが

有名になるとはかぎらない。

 

審査員がどこの結社にいるかで、

大きな賞の受賞者もきまってくる、というのが、

わたしの短歌界の理解である。

 

つまり、短歌の世界や俳句の世界は、

権威主義の頂点のようなものなのだ。

 

 政治の世界もきっとそうだろう。

 

 

あの政治家、よくやっているよね、

と、一般の人びとから名指されて、

株をあげられたらいいのに、

と、わたしはそうおもう。