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パルナッスム山への階段

 詩の基本的な技術を

「グラドゥス・アド・パルナッスム」というらしい。

ラテン語で、パルナッスム山への階段

というのが原義で、しらべれば、音楽用語として

普及しているようである。

 

 が、詩にはそういう基本的なことが

教われるが、こと、短歌の世界は、なかなか

基本的な技術をおしえてもらえることがない。

 

 たしかに、三句切れの歌で、

結句を「て」でとめてはだめとかいうひともいる。

 

しかし、

 

・  歴史のなかにウイルス一つ終熄す瘡痕うつくしき腕に残して  石本隆一

 

なんていう名歌は、三句切れの「て」止めの歌である。

 

 オノマトペもあんまり使わないほうがいい、

というひともいる。しかし、

 

・  鶏ねむる村の東西南北にぼわーんぼわーんと桃の花見ゆ  小中英之

 

この「ぼわーん」なんて素敵じゃないか。

 

・  花もてる夏樹のうえをああ時がじーんじーんと過ぎてゆくなり  香川進

 

わたしの師匠の師匠の作品。

 

オノマトペのお手本として、あまりにも有名だから

ご存知のかたも多くいよう。

つまり、オノマトペは、うまく使えばものすごい

名歌の可能性を秘めてはいるが、

使い方をまちがうと、陳腐で駄作になるわけだ。

 

さて、上の句は失念したが、ある女性の短歌を

拝見してびっくりしたことがあつた。

 

その下の句はこうだった。

 

・  家族旅行たのしさ満喫

 

たしかに、字数的には「家族旅行」が字足らずではあるが、

もんだいはない。が、しかし、「たのしさ満喫」はあまりに

おそまつである。

で、わたしが、その方に

「この下の句はないほうがいいんじゃないですか」と

進言もうしあげたら

「だって、わたしはこれが

いちばん言いたいことなんですもの」と

反駁してきた。

 

そういうときは、暖簾に腕押し、

なにを言ってもだめなので、

「ああ、そうでした、そうでした」と

さっさと引き上げるのが

わたしの常套手段である。

 

短歌の「グラドゥス・アド・パルナッスム」があるなら、

まず、言いたいことは言わない、

ということだとおもう。

 

いかに詠むかではなく、いかに詠まないか、

これが短歌のもっとも根幹にあるのだと、

わたしはおもっている。

 

つまり、テーマのコアなところは、

読者にゆだねる、ということである。

 

プレゼントをあける楽しみを読者に委譲する、

ということでもおんなじことだ。

 

この中身はね、「○○が入っているのよ」って

手渡したら、あける楽しみがないじゃないか。

 

ま、短歌をしているひとは「アリエネ」な方が

多いから、なにを言っても言うことを聞かない、

というものなのだろう。

 

そこにゆくと、俳句の世界はなかなか

子弟関係がしっかりとしている。

 

松尾芭蕉のころは、俳句という語彙がなく、

句とか風雅とか俳諧なんて呼ばれていた。

 

ちなみに、俳句という語は正岡子規だから、

明治までまたねば俳句は存在しなかった。

 

 

・岩端やここにも月の客ひとり  去来

 

芭蕉の門人去来の作である。

 

「岩端」は「いわはな」と読む。この句を洒堂という、

やはり芭蕉の門人が手直しをする。

 

 

・岩端やここにも月の猿ひとり  洒堂

 

洒堂の手直しではじめてわかるのは、

この「月の客」とは猿だったのだ。

 

去来が、月をみながらそぞろ歩きをしていたら、

岩端に猿が月を見ていた、という光景だった。

 

そこを去来が「月の客ひとり」と詠んだわけだ。

 

 

で、この去来と洒堂のやりとりを、去来が、

師の芭蕉に問うてみたら、芭蕉先生、

「猿とはなにごとだ。お前はどういうつもりで

この句を詠んだのだ」とおっしゃる。

 

「はい、山路をふらふらと歩いておりましたら、

またひとりの騒客を見つけまして」と答える。

 

「騒客」とは、ここでは風流な人ではなく、

月を見ているかのような猿のことなのだが、

そこで芭蕉先生は、

「ここにもひとり月の客」と、じぶんもここにおりますよ、

という句にせよ、とひとこと。

「ただ自称の句とすべし」と教えるのだ。

 

・岩端やここにもひとり月の客 芭蕉

 

自称の句とは、一人称文芸のお家芸、

じぶんのことを題材に詠む、ということである。

 

つまり、岩端に猿がいようと、猫がいようと、

そんなことは無縁なのであり、

わたしも「月の客のひとり」にカウントしてくださいな、

という句にすることが肝心だということを

芭蕉は去来に教えたのである。

 

それを聞いて、去来すっかり感心して、

「自称の句として見れば、狂者のさまも浮かみて、

初めの句の趣向にまされること

十倍せり。まことに作者、その心を

知らざりけり」と述べるのである。

 

 

こういう真摯な気持ちこそ、パルナッスム山への階段とおなじく、

「風雅という山への階段」ということなのだろう。

 

 

「家族旅行たのしさ満喫」の婆さんも、

すこしはこういうのを見倣え。