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自分とは何か

 じぶんのことを語ろうとするとき、

じぶんを含んだ他所からじぶんを描かねばならない。

 じぶんを含んだ他所からの風景を、

ヘーゲルというひとは「自己意識」とよんだ。

 

 ただ、その「自己意識」を言語化するには、

その「自己意識」の領野から

またべつの次元に立ちのぼって

描かねばならないわけで、

それによって、じぶんは、

「自己意識」の地平から外に追い出され、

そこからの言語化となるので、

またひとつ高い次元からの描写になる。

つまりは、三重にじぶんを取り囲むことになる。

 

 

領域を超えることを「メタ」というが、

じぶんがじぶんを語るときは、メタにおけるメタが

じぶんを限定することになる。

 

 限定とは変形、デフォルマシオンである。

 

 変形、つまりデフォルマシオンのなかにしか

対象はあらわれない。

 

 なぜなら、言語化されたとき、

その対象を過不足なく言うことができないからである。

これを、ジャック・ラカンは

「根源的疎外」とよんだ。

 

 この言語の特質「根源的疎外」をデフォルマシオンと

かんがえてもおんなじことである。

 

 このへんの事情を、論理的に問うのが、

哲学なのだが、わたしは門外漢なので、

それいじょうは説明することはできない。

 

 で、こまったことは、実在のわたしと、

語られたわたしとは、おそらく別物のはずなのだ。

 

 それは、言語の根源的疎外という性質上、

しごく自明のことであるし、

さらに付け加えれば、

スピノザがいうのは、

「限定とは否定すること」であって、

否定とはある種の規定にほかならない。

 

 つまり、じぶんを語ろうとするときは、

メタにメタをくわえながら、舌足らずにしかならない、

ということなのだろう。

 

 換言すれば、変形に変形をくわえられたじぶんが、

紙面にあらわれている、ということなのだ。

 

 哲学では、語られたじぶんと語ったじぶんが

どのくらいの近似値なのか、

どれほど一致しているのか、不一致か、

それをシステマティックに

分析するらしいが、めんどくせぇな。

 

ところで、

わたしのもっともいやな部分のひとつが、

お愛想笑いである。

 

 いや、もうすこし厳密にいうと、

お愛想笑いをしたあとの真顔にもどる

その時間のじぶんがいやなのである。

 

 

 愛想笑いというのは、

他者、「すぐそばにいるあなた」にたいする

心遣いであるのだが、

そのひととの関係性がなくなって、

視線をそのひとからずらし、

平時にもどろうとするときの、

あのアルカイックなスマイルからグラデーションで

笑わないじぶんに、もどってゆくとき、

ああ、なんでおれは愛想笑いなどしたのだろう、

と、後悔の念にかられるのが常なのだ。

 

 

 笑わなくていいときに、むりに笑って、

映画の撮影みたいに「はい、アクション!」と、

いっしゅんにして平時のじぶんにもどったら、

それも不具合だし、だから、

ゆっくり、じっくり相好を崩した顔を

平常時に立て直してゆくわけだ。

 

 それは、他人の愛想笑いでも

おんなじで、ふだんにもどってゆく

その顔のゆるみが気になってしかたない。

 

 

「イケジョ通信」というネットにあがった

愛想笑いの心理というのを引用すると、

 

  1.  取りあえずその場を凌ぎたい
  2.  嫌われたくないと思っている
  3.  本音を悟られたくない
  4.  自分が注目されたいと思っている
  5.  最高の相手を見つけたいと思っている

 

の五項目らしいが、わたしの愛想笑いは、

おそらく、他人と同調するためなのではないか。

 

そして、愛想笑いと心からの微笑と、どうちがうのかと

言われれば、じつはそのカテゴリーは、

じぶんではわかってないかもしれない。

 つまりは、笑う顔からふつうの顔にもどるときの

嫌悪感だけがじぶんにはあって、

それが、なんの笑いだったか、事後的にも

よくわかっていない、ということなのかもしれない。

 

 

 で、それをメタによるメタで解析しても、

よく分からずじまいなのであって、

表記上の変形ではなく、顔の変形だけが、

たしかなわたしなのである。