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倒語

 冨士谷御杖という学者がいた。
いまでいうところの国学者である。

「ふじたにみつえ」と読む。
ちょうど本居宣長の時代のひとである。

古典研究、つまり国学は、賀茂真淵とか、
本居宣長が主流であって、御杖は支流であった。

だから、ほとんど御杖の存在をしるものは、
いまの世の中ではいないだろう。

 御杖の名が、人口にカイシャしなかった理由のひとつが、
師をもたなかったこと。

唯一の師は父親の、
冨士谷成章(なりあきら)だった。

師をもたない、ということは、
流通している専門用語をつかわない、
ということである。
 
 だから、かれのテクニカルタームは、
一般的ではなかったし、かれしか理解できないことも
あったはずなのだ。


「名」「挿頭(かざし)」「装(よそひ)」「脚結(あゆひ)」

これは、父の成章の造語だが、
それを踏襲して御杖は語を分類していった。

だから、一般人はわかりっこない。


ただ、このなかに、あらたなる概念やら
思想が織り込まれている可能性もあるのだ。


かれは、既存の言語にあらたなる意味を
くわえ、その比喩性を活かしながら、
自説を構築していったのである。


とくに、「倒語」という概念は、かれ独自のものだった。

「倒語」といえば、逆さ言葉である。

芸能界でよく使われている業界用語にちかい。

「飯」を「シーメ」と言ったり、「寝る」を「ルーネー」とか、
そういうたぐいである。


「ギロッポン」とか「ナオン」、「ワイハー」なんてのも、
そのカテゴリーである。

ひどいのは、「おい、スーシー食いに行こうぜ」
とか言いだすやつもいて、
「スーシー」って「鮨」だから、そのまんまじゃないか。


しかし、御杖のいう「倒語」は、そういうものではない。

かれは「直語」と対立する概念を「倒語」と規定した。

「直語」とは、おもったままをダイレクトに表現することをいう。

うれしいなら、うれしいという。
つらいなら、つらい。

これが直語である。

「倒語はいふといはざるとの間のもの」と御杖はいう。
(「言霊弁」より)

言うと言わないとの間とは、
つまり、言いたいことを直接に言わずに、
言外に述べるということである。

この発想というのは、
短歌をつくるときの心構えに通ずる。


うれしい、とか、たのしいとか、
哀しいなどをすぐ詠んでしまうのを
「認識がはやすぎる」とか、たしなめられる。



わたしも弟子筋には、
言葉は贈り物だから、あける楽しみは
相手に与えること。
とか、いかに詠むかではなく、
いかに詠まないか、というふうに伝えているが、
御杖にいわせれば「倒語」で歌は語れ、ということになる。


「いはまほしき事を深く言に
つつしめる心のうちの苦しさを
神もあはれとおぼすぞかし」


「深く言につつしめる心」とは、
龍安寺方丈の庭に置かれた石の
地中深くにうもれた力量観を味わうごとく、
見えないもの、語らないものを
深くあじわうということにほかならない。


「出来事は言語化されたときに
その本質的な他者性をうしなって、
既知の無害で、なじみ深く、
馴致された経験に縮減される」と
語ったのはモーリス・ブランショであるが、
言語化されるとき、その言語は、
手垢のついた、だれかの語ったことばでしか、
ありえず、それは「他者性」を失うというこに
ほかならない。

プレゼントをもらって、
「ありがとう」という。

その「ありがとう」は、オリジナリティのない、
既知の無害で、なじみ深く、馴致された経験いがいの
なにものでもない。


プレゼントをもらって、「オッパピー」とか叫んでも、
相手にはその真意は伝わらないだろう。

やはり、だれかの語った言語で、
おんなじように言わねばならないのである。


しかし、表現者は、そんな言語であるが、
そこから個別性のある、つまり、他者性を担保するような
言い方を探し回らなければならないのである。


どうせ、言語など、過不足なく語ることはできないし、
語ったところで、だれかの言ったことばなのだから、
そこは、むしろ、言わないで言う、という
御杖の「倒語」を採用してはいかがなものだろうか。