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チェスタートン

「OECDでは、日本はいま何位なんですか」

と、わたしは校長先生と副校長先生に問うた。

すると、お二人は、ちょっと首をかしげ、

わたしの質問の意図がわからないような表情をされたのだ。

「OECD (経済協力開発機構) が、世界の教育事情を

リテラシーの領域で、順位付けしている、それです」

と、わたしは付け足した。

と、ようやく、ご理解いただけたのか、

それとも、この場はうなずいてスルーするおつもりか、

「はあ」とご返事されて、それきりだった。

 

 

 わたしは、先日、地域教育連絡協議会の委員として、

地元小学校の図書室にいた。

 いったい、いま日本の教育事情は、世界のレベルの

何位くらいにいるのか、それが知りたくて、

それをうかがったまでである。

 

 しかし、教育の現場のトップに立たれている

お二人からは、世界における日本の教育事情の

レベルを聞くことはできなかった。

 

 

事後的に、ネットで調べた範囲では、

いま、経済協力開発機構(OECD)は、世界76の国と

地域を対象とした教育ランキングを発表したらしい。

 

その結果は、

1位「シンガポール」、

2位「香港」、

3位「韓国」、

4位「日本」「台湾」であった。

 

これは、15歳の生徒を対象に実施した

生徒の学習到達度調査(PISA)の

数学と科学の結果に基づき、

世界76の国と地域を対象に集計したものだそうだ。

 

 日本は4位なので、クラスというミクロで例えれば、

76人のクラスの4番目、まあまあではないか。

そうおもうのだが、しかし、こういう結果について、

教育の現場では、わりに無自覚なものなのだと、

わたしは、しみじみとおもったものだ。

 

じっさい、わたしの卒業した小学校は、

つい15年前までは、単学級で、児童数が

120名を切っており、いわゆる統廃合の

ターゲットになった学校である。

 

 ところが、近隣の大学、東京工業大学と、

理科教科でタイアップをし、

理科の実験校となっていらい、

越境入学してくるお子さんも増え、

いまでは、300人を超える児童数を

誇る学校となっているのである。

 

 たしかに、児童数も増え、統廃合の

心配もいまのところなく、

安泰かもしれないが、

それは、東工大という

大きな傘のしたにいるときの刹那的な

期間かもしれないのだ。

 

 ところで、

いまから、十数年前のOECDの調査では、

教育レベルの一位は、フィンランドであった。

なぜ、北欧の、北海道よりも人口のすくない国が、

教育事情で世界の冠たる国となったのかといえば、

教育関係の大臣がすこぶる若く、

トップダウンの政策を廃止し、

各学校ごとの、教育方針を打ち立てるような

方針を立てたのである。

それによって、フィンランドの学校は、

一クラスを20名前後に設定し、

各学校ごとのカリキュラムを作って

授業をしているうちに、世界一の

リテラシーのある生徒たちを

有する国となったのである。

 

つまり、逆に言えば、お役所から言われたことを

そのまま、その言われたとおりにしていれば、

おのず教育レベルは悪化するということに

ほからないのである。

 

 世界第四位となったわが国も、

このまま教育委員会のいいなりになっていれば、

ひょっとすると、レベルはさがってゆくかもしれない。

 

 つまり、トップダウンの窮屈な

教育事情のなかでは、児童、生徒の

自発的な創造性や応用性は養われないかも

しれないということなのだ。

 

 しかし、それは、かんがえかたひとつで

クリアされるかもしれない。

 

「絵画の本質は額縁にあり」と

言ってのけたのは、チェスタートンである。

 

 チェスタートンは、額縁が横に長くて、

縦に短ければ、

「キリン」は描けないだろう、という。

つまりは、額縁によって対象はきまってくる、

と、そう説いたのだ。

 

だが、それを敷衍しておもえば、

型のきまった場でも、そこに創造性を

発揮すれば、よい作品が描くことができる、

そうかんがえることもできるわけだ。

 

おそらく、チェスタートンは、制約された

領域においても、そこには独創的な芸術が

うまれる可能性がある、そう言いたかったのでは

ないだろうか。

 

 この考量は、いまのわが国の学校教育にも、

妥当することである。

 

 つまり、教育委員会というトップダウンの

制約された教育現場でも、

その限られた範囲内で、その学校独自の

オリジナリティのある教育ができるのではないか、

わたしはそうおもう。

 

 理科推進校として甘んじているのではなく、

公立学校という枠のなかにあっても、

その学校の独自性というものを

生み出してゆく、それこそが、

これからの学校教育の課題なのではないだろうか。

 

 親のクレーム、上からの圧力、

さまざまなもんだいを抱えている

今日の学校なのだろうが、

もうすこし、教育現場ではたらいている方たちに、

自由にふるまってもらえる環境は

整えられないものなのだろうか、

そうおもうしだいである