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国語学的に

『枕草子』の有名な「春はあけぼの」の

くだりで、じつはいまだに決着のついていない

箇所がある。

 

「夕日のさして山の端いと近うなりゆくに」

というくだりである。

 

ほとんどの参考書は

「夕日が差して山の端にたいそう近くなってゆくところ」

くらいに訳している。

つまり、近くなってゆくのは「夕日」である、

という解釈である。

 

決着がついていないというのは語弊があるかもしれない。

ほとんどの解説書もそうなっているからである。

 

が、ここに日本語のラングの段階での

おおきな問題がふくまれていたのだ。

 

その問題とは、

「山の端いと近う」の「山の端」と「近う」との

あいだに訳語として「に」を補ったことである。

 

それのどこに問題があるかといえば、

古来、日本語で助詞の「に」を省略した歴史はないからなのだ。

 

おじさん、林檎ちょうだい。

 

あいよー、50円負けとくよ。

 

おじさん林檎頂戴。

 

あいよー、50円に負けとくよ。

 

 

「50円負けておく」と「50円に負けておく」とでは、

意味がちがうことは自明である。

 

ということは「に」の省略は、母語たる日本語では

ありえない、ということになる。

 

 

ということは、「夕日のさして山の端いと近うなりたるに」は、

どう解釈するべきなのか。

 

 

「夕日のさして」までは、そのままでよいが、つぎのくだりは、

「山の端」を主語に立てて、

「山の端がたいそう近づいてくるように見えて」

と、こう訳すのが、国語学的なしかたである。

 

ようするに、夕日を背に、まるで山の端がこちらに

迫ってくるように見える、という意味合いだった

ということである。

 

格助詞「に」の省略された文章は、

あとにもさきにもここだけ、というより、

しっかりとした文法観で読み解くほうが

わたしはいいとおもうのだ。

 

だが、ここのくだりは、まだ決着をみていない、

というのが現状なのである。

 

 

 

 

平家物語の「橋合戦」のくだり。

 

平家方が、源氏の軍勢に追いかけられ、

宇治の大橋の板をはがして逃げる箇所がある。

 

つまり、橋のまんなかが

すっぽりと穴があいているのだ。

 

だから、源氏の侍がいきおいあまって、

何百頭の馬とともに、まっさかさまに川に

落ちてゆくのだった。

 

 

「先陣が、『橋をひいたぞ、あやまちすな。

橋をひいたぞ、あやまちすな』と、

どよみけれども、

後陣はこれを聞きつけず、

我さきにと進むほどに、

先陣二百余騎押し落され、

水におぼれてながれけり」

 

 

200名ほどの武士と馬は溺れて

流れていったわけだ。

 

が、ここに国語学的に

興味のあるフレーズがあったのだ。

 

おわかりいただけだろうか。

 

それはではもう一回。

 

「橋をひいたぞ、あやまちすな」

 

ここである。「橋を引きはがしたぞ、気を付けろ」

という意味であるが、

平家物語は1250年ころの作品。

 

鎌倉時代初頭であるから、まだ、

完了の助動詞は「たり」であったはずだ。

 

だから、「橋を引きたるぞ、あちやますな」が

正しい。

 

「引きたるぞ」は音便で「引いたるぞ」でもよいので、

そこはそれでよいのだが、「ひいたぞ」は、

その当時の文法では、ないはずの言い方である。

 

もっと言えば「ひいた」の「た」は

われわれが日常使用している完了の「た」と

おんなじ用法なのである。

 

それを、13世紀初頭の、それも、鎌倉武士が

日常的につかっていた、ということになる。

 

だから、学問的には、完了の助動詞「た」は、

すでに13世紀野ころに「関東地方」の方言として、

存在していた、というまぎれもない証拠だったのである。

 

これより時代のくだった作品に「た」という助動詞は、

見当たらないので、平家物語の「橋合戦」が初見という

ことになる。

 

 

関東の方言といえば、「観音」を「かんのん」と

読んだのもそうである。

 

江戸時代の「浮世風呂」という本に、

 

「へへ、関東べいが。さいろくを

ぜえろくと、けたいな詞つきぢゃなァ、お慮外も

おりょげえ、観音(かんおん)さまも

かんのんさま。なんのこっちゃろな」

とある。

 

「観音」は、江戸時代まで、

まだ上方では「かんおん」と発音していたわけで

江戸弁が「かんのん」であったわけである。

 

【KANON】とローマ字的に発音を表記すると、

「N」音と母音の「O」とがあわさると、

もうひとつ「N」の音がうまれる、

というのが日本語のひとつの特徴である。

 

だから、「KANNON」となる。

 

「反応」も、おんなじように「N」の音がひとつ

生まれた結果の読みである。

 

この現象を、わたしたちは

「連声」(れんじょう)と呼んでいる。