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山月記

中島敦の『山月記』は、
ほとんどの高校生が通り抜けてきたテクストである。

 治安維持法のまっただなか、
みずからの心境を語るひとつの方法論として、
この『山月記』はあった。

 李徴こそが中島そのひとじしんであって、
ああいうしかたでしか検閲をとおることはなかったのだろう。

「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」
このふたつが、李徴、いや、中島の心を占めていたという。

では、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」と、
その差異はなんであるのか。

じつは、分節のしかただけであって、
これは、おんなじものを角度をかえてみているだけだったのだ。

茶筒を上からみれば丸くみえるが、
横からみれば、長方形にみえるのと類比的に。

ゲシュタルト心理学で有名な
ルビンの壺の絵がある。

ふたりの女性が向き合っているようにも見えるが、
まんなかだけをみれば、壺にも見える、
というあの絵である。

これは、エッシャーのだまし絵とはちがって、
見方によっては別の絵にみえるということである。

このルビンの壺の急所は、
ふたりの女性がいることでもなく、
まんなかの壺でもない。

同時にこのふたつの図柄をみることができない、
というところなのである。

おんなじキャンバスに埋め込まれている
画像なのだが、同時にふたつが見られない、
というのが、ニンゲンの心理というものであって、
じつは、李徴さんも、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」とを
同時にみることはできなかったという話なのである。


それを授業では、このくだりは、どっちですか、
とかくだらない発問をしなくてはならなくて、
せんせいも生徒も気の毒だとおもうのだが。


さて、猛虎になってしまった李徴が、
こう語るくだりがある。


「ああ、全く、どんなに、恐しく、哀かなしく、
切なく思っているだろう! 
己が人間だった記憶のなくなることを。
この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。
己と同じ身の上に成った者でなければ」と。


わが心の吐露をするという身体運用は、
他者に同意や同情、あるいは共有をねがう気持ちから
だとおもうのだが、「誰にも分らない」という宣言は、
「この気持ちはだれにも共有できないということを
共有してもらいたい」ということを意味している。


たいそうな病をもっている方が、
もし、「この気持ちはだれにもわからないのよ」と、
他者にむかって発言すれば、
聞いているこちら側は、「そうですか」としか
言いようがなくなる。

というよりも、返答不能な状態にこちら側はなるものである。

たしかに、つらそうな声だし、
つらそうなオーラは伝わるが、
その本来を知りえることは不可能だし、
だれにもわからないものは、わからないのである。


こういう返答不能な状態を、「呪い」という。

「この学校をどうおもってるんだ?」なんて
激怒する教師にむかっての返答はほぼゼロである。

答えられるわけはない。

「わたしのことどうおもってるの?」
なんてのもおんなじ。

答えられない。

そういうとき、われわれは「呪い」にかかっている、
といってもいいのである。


この「呪いを解き放つためには、
家族どうしなら、受け手はキレたようになって
親子喧嘩や夫婦喧嘩となって、
それを解消しようとするだろう。

もし、友だちなら、ごめん、ちょっと用があって、
と、電話を切るしかない。

が、根本治癒にはなっていないので、
わだかまりは、すくなからず残るだろう。

 

ただし、この「呪い」が邪悪なものとか、

忌避すべきもの、という物言いではなく、

不可抗力的に発生してしまう、ということを

申し上げたいのである。


たしかに、虎になってしまったのは気の毒だし、
ニンゲンにもどることは不可逆的だから、
そこには「諦念」しかないだろうが、
「この気持ちは分からない」と宣告している
すぐそばで、
かれの友人はしずかにその不思議を聞いているのである。

そして、別れぎわ、

「懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上っ」て
「既に白く光を失った月を仰いで、
二声三声咆哮ほうこう」した虎となった李徴を
見送るのである。


そこには、友の呪われた姿は、
まったく見られずにこの話は
その内容もあいまって、静謐に終わりを告げるのである。


ところで、
「山月記」と「呪い」という論文はまだ世にない。