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短歌の話 あきれた編

・流行はうつろいやすく厚底のくつ履く人をみず売る店を見ず

だったろうか、ディテールでまちがっているかも
しれないが、こんな歌だったとおもう。
と、すこぶる失礼な書き出しなのだが、
この駄作は、かのA氏の作品である。

かのA氏は、佐藤佐太郎の弟子であり、
日本歌人クラブの最高峰までのぼりつめた方で、
短歌をいそしんでいるものなら、
ほとんどのひとが知っている著名な方である。

が、わたしたちは、大学の短歌会で、
氏にまなんだ時期があり、
いや、学ぶというより、氏の語彙感覚の
貧弱さに閉口していた一年があった。


そもそも「流行」は「うつろいやすく」とはなにか。

われわれは、あるイデオロギーを
常識としてとらえている偏見の時代を
生きているのであるから、流行などというものは、
うつろいやすいのにきまっているじゃなぃか。

今日の流行りは明日の古さ、
いまじゃ、妖怪ウォッチの体操しているひとを
見かけないし、オッハーなんて言っているひともいない。

ましてや、ルーズソックスはさておき、
ハイソックスの女子高生を見るのもまれになってきた。

なのに「流行はうつろいやすく」と
あたりまえのことを大上段にもって
こられて、さあ、どうだ。

上掲の短歌は、二句切れであり、
初句と二句めで、ひとつの真理をいいあて、
それにともなう事象をのこりで詠うという骨格である。

こういう構造を「合わせ鏡」とよぶ。


・春過ぎて夏来たるらししろたへの衣ほしたり天の香久山


持統天皇のこの歌と、骨格はおんなじである。

「春が過ぎて夏が来」たという結果と、
それにともなう理由が、三句目以降に語られる。


ただ、持統天皇の歌とのおおいなる差異は、
歌の中身にある。


ほとんど、含意がないのが、「流行は」の歌である。
物語が起ちあがらないし、個別性も貧弱である。


短歌の悪いお手本ならいいのだが、
ご本人しごくご満悦で、歌会に出してこられたから、
こちらは吃驚である。


・究極の平和と言はめオリンピックの勝者のなみだ敗者のなみだ


これも、A氏の作。おどろくかぎりである。

骨格は、二句切れ「合わせ鏡」の手法であるが、
初句の「究極」がいけない。

「究極」というのは、物事を押し詰めていって、
最後に到達するところであり、ものごとを
つきつめ、きわめることである。


つまり、ワザなのだ。

平和はワザなのだろうか。


むかし、「究極のらーめん横濱屋」という店で、
「さらに麺がおいしくなりました」と看板に書いてあって、
「究極」のくせに、なんで「さらに」なのかと、
首をひねったこともあるが、まだ、横濱屋さんのほうが
愛嬌がある。


つまり、「平和」に「究極」という形容はできない、
ということに無自覚なのだ。

こういうのを、前述したが、語彙感覚の欠如という。

昭和12年生まれで、
そんなに学問を積んで来られなかったのか、
そもそもの能力的なものなのか。


いま、世の中では「非人称」という語彙が
流行っているようだが、わたしのように
ふるい人間にとっては、「個別性」のほうが
大事におもえるわけで、
ようするに、短歌には、その人となりが
かもされていてナンボとおもうのである。

が、この二首からは、その個別性がまったく
うかがわれないのである。


没個性の歌を非人称の歌、というのでは
ないはずなので、このA氏のこういう作品たちは、
言葉遣いのあやまりの箱に除染されたほうがいいと
おもう。


わたしが、もっともおどろいたのは、
歌を失念しているが、A氏の作品のある一部であるが、
この語であった。


「たまさかに携帯わすれ」


「たまさか」とは偶然の意。

偶然の「然」は状態をあらわす接尾語であるから、
「たまさか」はある、「たまたまの状態」をあらわす。


偶然、携帯を忘れた、という日本語は、
ラングのうえでも、スティルの領域でもあるはずのない
フレーズだとおもう。

だから、わたしは、歌会の場で、

「たまさかに携帯忘れとはいわないとおもいますが」
と、発言したら、たまたまとなりにすわっていたA先生、
辞書をとりだして、調べ出したのだ。


そして、ひとこと、

「辞書では、偶然とあるから、これは正しいですね」


なにをかいわんや、である