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戦後

 どの評論文をみても「戦後」という語が
当たり前に語られている。

 戦後75年。


 75年も経てば、死語となる語もずいぶんある。

 アノラック・ずぼん・チョッキ・とっくりセーター・えもんかけ・
こうもり傘・すかっとさわやかコカ・コーラ・ハマトラ・骨皮スジえもん・
コール天・バタンキュー。

 ま、おもいだせば枚挙にいとまない。

 しかし、「戦後」という70年も前の言葉が、
いまだに、いまのきみはピカピカにひかってー♫
くらいに生きているという理由のひとつは、
戦争責任を国が果たしていない、というところに
起因しているかもしれない。

 じっさい、戦争責任とはなんなのか。
負けた責任なのか、勝てば責任はないのか。
日本は謝罪し過ぎるという海外もあるが、
それは真実か。

「私たちが2つの大戦を通して反省してみるとしたら、
それは戦争責任などという実態も概念もない空論ではなく、
あれらの戦争が本当に国益になっていたかどうか、
戦争することが本当に得なのか、
あるいは損になるのかを計算することしか意味はない。」

は、「日本に『戦争責任』なし」の引用。


と、戦争責任ひとつとっても
その概念さえもあやういのだが、
けっきょく、第一次大戦、二次大戦の「けり」は、
まだついていない、ということなのだ。


そして、その「けり」はあと100年くらいは
続くだろうというのが識者の考量らしい。


だから、中国から韓国から、やんのやんのと
言われるわけである。

「けり」をつけないことを「先送り」という。

わが国は、よくわかっていない戦争責任を
どう先送りしてきたかといえば、思考停止でもなく、
その根本的研究でもなく、国会論争であった。
国会論争とは、相容れないイデオロギーで
甲論オツバク、闘わせている構造をいう。

つまり、与党と野党とで、
靖国神社参拝を、反対、賛成と言い続ければいいのである。

あのカッコ悪い議論の応酬は、
そうやって闘わせているうちは、
国内で、戦争責任を問うまでにいたらずに
済むという、とっておきの作戦であったのだ。


つまり「先送り」とは
問題解決を後回しにする手法であったということである。


「先送り」には、こういった
すがたは悪いながらも、打算的知性がある。


そして、「先送り」にはもうひとつの構造がある。

食品企業の不祥事や年金問題にそれが見られる。

だれかひとりでも、「これ続けてやっているとまずいですぜ」と
いうひとがいて、そのひとが覚悟をすれば、
ここまでおおきな問題とならずに済んだはずである。

なんでじぶんだけが悪者にならねばならないのか、
と、先送りする。


内田樹さんは「自らの倫理的有責性
告発し、自らの知的貧困を認識することが
できるくらい倫理的に誠実で、知的に卓越している」
と語るが、それは、ぎゃくに言えば、
「わたしが間違っていましたという宣言を
かれの愚鈍の表明ではなく、むしろ知性のあかしを
表す習慣が日本にはない」(同氏)ということとおんじである。


つまりは、こういう先送りにたいする不祥事は、
すべて、想像力の欠如がもたらしたものであるわけだ。

これ、ほっておいたらたいへんだよね、
という三歩先の想像力と、すみませーん、
いまやめときます、という勇気と
わたしが間違ってました、という知性が
はたらけば、取り返しのつかない亀裂には
ならなかったはずである。


文明と文化の差とは、文明とはないところから
築き上げるものであるから、分節のしかたを
変えれば「破壊」である。

文化とは、長い年月守り続けたものであるから「保持」である。

ようするに、文明と文化をもつ国は、
構造的に「破壊」と「保持」という相反する
性質のものを抱え込んでいなければならない。


そこに、国家レベルでねじれが生じて、
どこかに、そのねじれがマイナスな姿になって
現れてくるかもしれない。

そういう、根本的なねじれを、
毛沢東は「主要矛盾」とよんだ。

そこから生まれるさまざまな汚点を
「従属矛盾」という。


「文明」と「文化」の衝突的な主要矛盾によって、
どんな従属矛盾がおきているのか、
たとえば、モラルハザードはその従属矛盾なのか、
このへんの事情は社会学者にまかせておいて、
それとおなじく、知的先送りと、想像力の欠如した先送りと、
こういう、二項対立的な考量が、

主要矛盾なのか、はたまた従属矛盾なのか、
それもわからず、
そして、はたして、これからの世の中、あるいは国を
どういう方向にすすめてゆくのか、
あんまり、明るいものが見えてこない、
というところでは、たぶんみな一致することなのだろう。


戦後というが、国のなかでも、
こういった戦いはいつもつづいているのである。