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ママチャリ

 そろそろ春になろうとする公園に、
数台の自転車が置かれている。

 それも、みなチャイルドシートをつけ、
ある自転車は、前輪のうえにもついている。

 わたしは、その自転車群をみていると、
いつも、なにか高圧的ななにかをかんじてしまうのだ。

 それは、どちらかと言うと不快な感覚である。


 今朝、小学校の低学年だろうか、
もう春休みだというのに、ランドセルを背負い、
出かけてゆく子がいた。

 どこに行くのかと聞けば「塾」だそうである。

 小学校から塾通いである。

 いまの子どもたちは、ほぼ、
スケジュール通りに、学校がおわれば、
習い事をする。

習字、水泳、そろばん、ピアノ、それに学習塾。

 遊ぶひまさえない。

寸暇を惜しんですることといえば、
携帯のゲームくらいである。

 なぜ、子どもはこれほどまでに、
習い事をしなくてはならないのか。


 おそらく、今日の保護者の
おおよそは「みんながしているから」
という信憑で、そうしているのか、
あるいは、「将来のため」という動機付けではないだろうか。


「将来のため」というのは、
いい大学にはいり、いい就職をし、いい伴侶をみつけ、
そして幸せになる、という道筋を
親は子に願うものである。


みんながしている、という考量は、
これは、農耕民族性のあらわれであり、
また、将来のためというのは、
学歴と幸福論が架橋していることのあらわれである。

これは、ちょうどモード現象という
社会装置と類比的である。


モード現象とは、上位にある個人や集団の

独自性を模倣し、一方で、
下位の個人や集団との違いを強調、差異化のように
見せて、じつは同化のベクトルでしかない、
こういう機構に乗って動いている社会装置のことをいう。


つまり、ドミナントにきどったつもりが、
まわりをみたら、みんなといっしょじゃん、
みたいなものである。


わたしは、いまの社会が
ものすごく劣化しているとはいえ、
そこに住まうひとが、子どもを塾にやり、
一人前になってもらいたいと希求することに、
全面否定することはないけれども、
ただ、危惧することは、
習い事も学習塾も、すべて、
受動的な領域である、ということなのだ。


すべて、与えられて、それを
我が身でもって、吸収したり、暗記したり、
そこに、創造性を開花させる装置が皆無であることに、
わたしは、この国の将来をおもうと、
頭を抱えてしまうわけである。


言われたことはなんでもこなすが、
じぶんから、独創的なことができない
人間を大量生産しているこの国を
憂うわけである。


子どものときは、野原にほったらかしにして、
ミミズを引き抜いたり、
川原でぼんやり陽の沈むのを眺めたり、
山で、食べられるきのことそうでないのを選別したり、
海で、フジツボに足をさして痛がってみたり、
フナムシを捕まえてつぶしてみたり、

そんな、子どもの自由にさせてやる時間がないものだろうか。


子どもの無限にある創造性は、
いま、親によって、剥ぎ取られてはいやしないだろうか。


でも、それでいいんですよね。

だって、みんなといっしょだから。


高学歴のないバカにはなりたくないのだから。


じぶんの子をよーく見つめて、
その子が、どんな子なのか、よりも、
むしろ、まわりのみんなに、その子を
合わせるように仕向けてはいやしないだろうか。


でも、それが正しいんですよね。

みんなといっしょ。出る杭は打たれる。


しかし、いま、企業は個性を求めて、
人材探しをしているところだが、
就職活動をしている学生さんは、
みんな、おんなじような背広やスーツを着、
おんなじようなカバンを持ち、
じぶんのアイデンティティーを押し殺して
企業面接にゆく。


このパラドクスをなんとか打破できなものだろうか。


つまり、独創的な、ユニークな、
世界に唯一な人を作り上げるには、おそらく
この世の中の価値観を総取っ替えしなくては
ならないのだろう。


 カードゲームみたいに
簡単にできることではないけれども、
産業構造改革とともに、大々的なパラダイムシフトを
しなくては、この日本という国が、
とてもおバカな島国なってしまうような気がしてならないのだ。


チャイルドシートはもちろん道交法によって
そう決められてはいるが、
そこに乗せる子どもたちには、
チャイルドシートから降ろしたあとは、
ほら、自由に遊んでおいで、
飽きるまでゆっくりね、
お母さんは、なんにもしないで遠くにいるからね。


わたしが、あのママチャリに
どうもいいイメージがないのは、
勉強なんてできなくてもいい、心の広く、
きれいな子になって、ほかのだれでもない、
たったひとりの人間になってほしい、
という気持ちがほとんど希釈されている
その象徴のようにおもえてならないからなのである。


子どもには、もっと外で自由にさせたらどうかな。


もっと光を。