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母になる

 陣痛がはじまったのが、
午前2時、長女の母親は長女とともに、
病院にむかう。


 産まれたのは、その日の夕方の5時ごろだったから、
ずいぶん長くかかったものだ。

 
 母の胎内にいるときから、
胎児には、母の声も外界の音も
すでに認知しているらしい。

 だから、モーツァルトとか、
ほかのクラッシックとか、それを聴かせていると、
すこぶる胎児にはいいそうだが、
母が胎内にいる子どものために
会話する、ホースのようなものまで、
市販されているそうだ。

 いわゆる胎教というやつだ。

 わたしの知人で、
胎教にいいから映画にゆこう、と
ご主人に言われ、
観た映画が「座頭市」だったという話をきいた。


 北野武の「座頭市」である。

 いたるところで、切り合いがあって、
映画としてはおもしろいだろうが、
血がびゅんびゅん飛んだり、
ばたばた人が死んだり、
はたして胎児にはどんな影響があったのだろうか。


 また、その方は、友だちから、
これも胎教にいいということで、
外に出て、見たものといったら、
「木下大サーカス」だったそうだ。

 熊が自転車に乗ったり、
高いところを棒一本もって渡ってゆく
ひやひやものの演技とか、
どうみてもお腹の子には、あんまり
いい影響のあるものとはおもえないが、
いま、その子もすくすくと成長されているらしい。




「産まれた」というラインが妻から来たのが、
16時54分。

「ほんと。でかした。で、なんでわかるの」とわたしが聞き返すと、
「ご主人からラインが」との返事。


「母子ともに元気か?」

わたしがもっとも気になることである。

「元気」と返信がある。

そして、産まれたばかりの孫の動画が送られてきた。

「娘は?」

「だから元気っていったじゃん」


「いや、むしろ娘の姿が見たいじゃん」
と、わたしはせっつくようにラインした。

 たしかに、孫は可愛いのだろうが、
わたしには娘のほうが大事である。


と、ちいさな命を胸に抱いて
ベッドに横たわっている長女の微笑む写メが
ラインに送られてきた。




「ロードって知ってる?」
長女がまだ高校生のころ、小学生の次女にそう訊いたのだ。

そこで、わたしは、食事をしている長女に、

「お前、カラオケ行っただろ?」と、問うた。

と、娘は、食べていたなにかを
口から半分もどしながら、
「う」と前かがみになったのだ。

で、わたしは、「年上の男と行ったろ?」とつづけて訊いた。

「う、うん」

「全部、おごってもらったろ?」


「わたし、墓穴ほった?」と彼女。

そもそも、ロードという曲は、そこそこの年齢になった
男がカッコつけて歌う楽曲である。

たぶん、娘はその曲を知らなかったのだろう、
ふーん、こんなカッコイイ歌があるんだ、
きっとそうおもったはずだ。

で、次女にその辺の事情を訊こうと
「ロードって知ってる」と言ったのだ、
というのが、わたしのプロファイルである。


べつに、長女がハスッパだとはもうしあげないし、
仕事も、人並みいじょうにこなしているし、
それは、わたしの娘にしては、
よくやっているとおもうが、
わたしには、よく減らず口をたたく、
そんな娘がいま、出産をして、みずからの子を
抱いている、その顔は、まるで
神がのりうつっているかのような微笑みを浮かべ、
その子を眺めているではないか。


「愛」という一語などでは語れない。
むしろ「慈しみ」という語のほうが近いかもしれない。
それは、ひじょうに美しい表情であったのだ。

「こんなきれいな娘を見たことない」と、妻にラインをした。


と、それから、しばらくして、ご本人からのライン。

「ぶじうまれたよ! しぬかとおもったけど」


わたしもひらがなを多用するが、娘もそうなのか、
あるいは、漢字を知らないのか、こんなラインだった。

でも、わたしは、そこで、

「おめでとう」でも、「でかした」でも「よくがんばったな」でもなく、
こう返事した。


「お前の表情、美しいよ」


わたしが、彼女にたいして、生まれてはじめて
掛け値なしに褒めた、さいしょの言葉である。


さ、この父親の称賛にたいしてどんな返事が来るのか。


「ありがとう」

「ほんと、うれしい」

「はじめて、言われた、そんなこと」


さあ、どれだろう。

と、すぐさま彼女から返事が来る。


「でしょ!  母になった!」


なんだ、その「でしょ」ってのは。