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店舗案内

肉と豆腐のうま煮

 豆腐があったので、
肉を切っていっしょに煮てみた。

 これが朝昼兼用の食事である。

「肉と豆腐のうま煮」という料理だ。

 醤油とだしと生姜、そこに
豚肉と豆腐、ねぎ、それを煮るだけの簡単な
料理である。


 この日は、晩飯に「かけ蕎麦」を食べる予定だから、
ひどく粗食ということになる。


 わたしが、この料理を知ったのは、
はるか幼少期のころであった。

 サラリーマンであった父が、
雨がふると、どこから家に電話して、
駅まで傘をもってくるようにと言づけ、
その傘をもってゆくのがわたしの役目だった。

 携帯電話などない時代だし、
ましてや、乗車案内のアプリなどないから、
ひどくアナログな世界だったとおもう。

 だいたい父が帰るだろうころに、
小学生のわたしは二本の傘をもって、
駅に立っていた。

 さながらハチ公のごとく。


 そして父が駅から出てくると、
ふたりで商店街をあるいて帰宅するのだが、
そのときは、いつも、路地裏の中華屋によって、
父はビールを飲み、わたしは、
夜食のように、毎回、「肉と豆腐のうま煮」を頼んだ。
この字型のカウンターだけの店であった。

「肉と豆腐のうま煮ください」というと、
若いのかそうでないのか、
子どもだったのでよくわからないが、
その板前さんひとりで切り盛りしている店で、
「肉と豆腐のうま煮ね」と復唱しながら、
つくってくれたのをいまでも覚えている。


 出てくるものは、そんなに高級なものではなく、
父がビールのほかになにを食べたのかも
覚えていないが、あの「肉と豆腐のうま煮」の味だけは、
記憶の片隅にいまでものこっている。

 小学校の高学年だったのか、
そのころから、わたしは、父よりは
頭脳明晰ではないかと自覚していた。

 父は、明治大学を出たのか、あるいは、
高校卒なのか、はっきり教えてもらえなかったが、
すでに、わたしは父よりも
ものごとの道理くらいは理解しているとおもっていた
すこぶる生意気な少年だった。


 ただ、一流の生命保険の社員だったおかげで、
ひもじいおもいをしたことはいちどもなく、
また、お前には金がかかっているとか、
親への感謝を強要するひとではなかったので、
それは、ものすごくありがたいことだった。

 兄と姉は、小さい頃に亡くなっているので、
わたしのことは、大事におもってくれていたことも
じゅうじゅう理解していた。

 だから、おもちゃ売り場で、すきな鉄砲買ってよい、
というときも、わたしは、むしろ、
過保護扱いを子どもながらに忌避していたから、
そのピストルの並ぶなかで、
もっとも小さな、もっとも廉価なものしか、
ねだることができなかった。

 「お前は、えらいね」
と、そのとき父に言われたこともはっきりと覚えている。

 肉と豆腐のうま煮は、楕円の白い器に盛られ、
れんげでもって、ふぅふぅして完食し、
わたしたちは、自宅にもどってゆく。


 いま、その父も、母も亡くなり、
団子坂のお寺には、父・母・兄・姉が眠っているが、
この家を継ぐ者として、わたしひとりが、
まだ生き残っている。


 わたしの作る、わたしだけの
「肉と豆腐のうま煮」はけしてうまいものではない。

 あのとき食べた、「肉と豆腐のうま煮」も、
ほんとうは、わたしの作るものと
そうかわりはないかもしれないが、
子どもの記憶は美化されるから、
よくわからないままである。

 ただ、子どものころに食べた
「肉と豆腐のうま煮」には、
いつもとなりに座る父の姿と
そぼふる雨の匂いだけは

忘れずにあるのである。