Menu

お得なアプリでクーポンGet!

店舗案内

ゲシュタルト崩壊

卒業式に出席した。
同窓会会長というお役目、
むかしは、PTA会長のつぎに並ばされて、
来賓、2人目だったのが、
いまじゃ、区議会議員やロートルのPTA顧問の
つぎに並ぶことになり、
兵隊さんの位もどんどん成り下がってきた。

 

その大田区議も、海外で豪遊しているところを
マスコミに抜き打ち取材されて、
あたふたとしたところが、
テレビ画面におおきく映し出され、
いわゆる時の人となった方である。

 

 

いよいよ、卒業生の入場である。

副校長が拍手をうながす。

 

児童たちの、「威風堂々」の演奏のなか、
来賓、保護者、教職員の拍手のなか、
卒業生34名が、間隔をあけつつ入場する。

わたしどもは、ひたすら拍手をつづける。

眠くもあり、二日酔いも手伝い、
わたしは、なぜ、拍手をしているのか、
ただ条件反射的に、両手をたたいているような
そんな気がしてきたのである。

 

 

そもそも、拍手という身体運用は、
どういうコノタシオン(いわゆる含意)をもっているのか。

中国人などは、指をひろげて、おおきな口あけ、
バチバチ手をたたくが、それが、芸能界にも飛び火して、
わりに、可笑しいときに、みな、中国流の拍手をするが、
なぜ、拍手をするのか。
たぶん、芸能人は、顕示的な意味合いもあるのだろうが、
一般的には、
賞賛、賛美、賞揚、ま、そんなところだろう。
が、そういうときに、なぜ手と手をあわせて、
じぶんの手を痛めつけながら
それを何回もくりかえさねばならないのだろう。

 

 

ちょっとおすましして、
とびきりのおめかしの34名が
体育館のじぶんの席に腰掛けてゆくのを
眺めながら、そんなことをかんがえていたのである。

 

 

 

そして、わたしは、いまなぜ、拍手をしなくてはならないか。
その理由はなんなのか、
はたまた、ひとりだけ拍手をやめたら、
この場ではどうなるか、なんてことを
おもいはじめていたら、
じぶんが、拍手する意味さえもわからなくなってきたのだ。

 

これって、ひょっとすると
「ゲシュタルト崩壊」なのじゃないだろうか。

 

「ゲシュタルト崩壊」というのは、
ウィキペディアによれば、
「知覚における現象のひとつ。
全体性を持ったまとまりのある構造から
全体性が失われてしまい、
個々の構成部分にバラバラに切り離して
認識し直されてしまう現象をいう。
聴覚や皮膚感覚においても生じうる」とある。

 

ウィキペディアが正しいかどうかは
わからないが、皮膚感覚でも起こりうるというのだから、
やはり、これはゲシュタルト崩壊なのである。

 

と、待てよ、
これをもっと敷衍してかんがえれば、
人生においても、友だちと映画を見ているときも、
ひとり、じぶんのために料理をつくっているときも、
恋人と手をつないで都会の喧騒をあるいているときも、
なにか秘め事をしているときも、
母の看病をしているときも、
じぶんっていったい、いま、なにをしているのだろう、
とおもうときが、あったかもしれないし、
これからもあるかもしれない。

 

 

いったい、じぶんってなんだろう。
いまなにやってるんだよ。

 

これって、ゲシュタルト崩壊じゃなぃか。

人生はただ一つの質問に過ぎぬと、論破したひとも
いるけれども、「いま、わたしはなにをしているのか」
という問いこそ、ゲシュタルト崩壊の
真っ只中かもしれない。

 

ということをかんがえつつ、校長先生の式辞がはじまり、
わたしは、こんな迷宮の問いを
頭のなかでぐるぐる回しているうちに、
どうも、昏睡状態に陥っていったみたいだった。

 

 

校長先生の抑揚のない、おもしろみの欠如した
ごあいさつが、
わたしの睡魔を背中から後押ししたせいもある。

どのくらいの時間が経ったのか、
先生の式辞がおわったらしく、
卒業生一同が、ざっと起立する。

 

その起立の雰囲気がわたしに、ひたと、つたわり、

わたしは、はっとして、

おもわず卒業生といっしょに

起立しようと、身体をびくりとさせたのだ。

 

 

そう、わたしは、あぶないところで、ただひとり、
来賓席で、卒業生といっしょに起立するところだったのだ。

 

つまり、ようするに、 
卒業式では、あまり複雑なことを
考えずに、ただ、ぼんやり座っているのがよろしい、
ということである。