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唯幻論

愛想笑いというのがあります。

おべっか笑いとか追従(ついしょう)笑いともいいますね。

「いやー、そうですか」なんて目は笑ってもいないのに、

口元だけは笑っているひともいます。

ああいう笑いを仏陀フェイスと欧米人はいい、

とても気味悪がっているようです。

 

狩猟民族は、両手を広げてはなかやに笑わないといけないんですね。

わたしは、どうもどうも、なんて言いながら頭をおさえながら笑う、

仏陀フェイス、あるいはアルカイックスマイルをべつに忌避するわけではないし、

それが日本人的であるとおもっています。

 

ただ、どうしても好きになれないのが、

あのうっすらと笑ったあとから真顔にもどってゆく、

ゆったりとした時間、

グラデーションでふつうの顔になってゆくその姿をみると、

なんかいやな感じがしてしまうのです。

 

 心理学者の岸田秀というひとが「唯幻論」を提唱しました。

まだご存命です。

岸田先生は「わたしたちの日常で起こっていることは、

ほとんどそのままのカタチで国家レベルで再演されている」と語ります。

 

 その本筋は、ペリー来航にまでさかのぼります。

ペリー来航、一八五三年のことです。

神奈川県浦賀にマシュー・ペリー率いる

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船二隻を含む艦船四隻が日本に来航した事件。

 

「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」

有名な当時の狂歌です。(「上喜撰」は茶の一種、蒸気船と掛けている)

ペリー来航は、一行を久里浜への上陸を認め、

そこでアメリカ合衆国大統領国書を幕府に渡され、

翌年の日米和親条約締結に至るというセンセーショナルな事件です。

日本ではおもに、この事件から明治維新における大政奉還までを「幕末」と呼んでいるわけですが、

ペリーは日本を植民地にしようと企んでいたことでしょう。

 

狂歌にもあるように江戸時代は泰平そのものでした。

なんせ三百年つづいた江戸時代ですが、

その三百年のあいだ国民総生産、

いわゆるGNPは一パーセントしかあがっていなかったのです。

つまり、徳川家康のころでも、

寛政の時代も享保のときもほとんどロケーションが変わっていなかったということです。

 

それが幕府の政策の中枢で、幕府は「不便」を行政目的の根幹においたのです。

橋はつくらない、馬車はつくらない。お江戸日本橋七つ立ち、江戸にはちゃんとした橋があって、

わが国は橋をつくる技術はちゃんとあったにも関わらずです。

その不便が功を奏して、地方は三百年、なんもかわらず持続しました。

それが「泰平」の中身です。岸田はそれを「苦労知らずのお坊ちゃん」と評しました。

 

 

十七世紀の初頭の江戸幕府のちょっと手前が関ケ原ですから、

まだきな臭い世の中だったのですが、

家康はすべての火薬を捨てるように命じます。

当時、火薬の含有量は世界一でしたが、その火薬は土にうめられ瓦にされました。

ですから、まだ日本海側の古民家などには黒い瓦がありますが、

あれは火薬のせいです。

火薬職人は花火職人に転職し、いまもその歴史は続いています。

江戸の町の人口も世界一でした。

 

そんな泰平の苦労知らずのお坊ちゃんのところに、

まったく文化のちがったとんでもなくでかい青い目の人物が

海からやってきたのですから、さぞや驚いたことでしょう。

 

ペリーは開国を迫ります。ここで、わが国は「開国論」と「尊王攘夷論」とにおおきく二分します。

開国論とは、つまり、外国とつきあうことを意味し、

尊王攘夷論は江戸のままでいたいという願いでした。

 

正直なはなし、のんきなやつが、

開国をすることでいやな他人とつきあわなければならざるを得なくなってしまい、

それはすこぶる屈辱であったのです。

 

そこで、お坊ちゃんは、分裂を病むというソリューションを奨励し、

外界に適応し、他者の意志に服従する自己、つ

まり開国するという意志の「外的自己」と、

それを仮の姿、いつわりの自己とし妄想的に自己を美化し、聖化する自己、

尊王攘夷論を継承する「内的自己」とをもつようになりました。

 

その内的自己が「本音」であり、外的自己が「建て前」です。

けっきょく「本音」と「建て前」を個人でも、

国家レベルでも内在化してしまったということですね。

 

その功罪は、精神分裂病をよそおうことによって

植民地化の回避の成功体験として具現化され、

しかし、人格のうえにおいてぬぐいがたい亀裂と傷痕をきざむことになったという

事情が岸田先生の「唯幻論」の骨格です。国家にも個人においてもです。

 

わたしが、愛想笑いから真顔にもどるときの

、あのいやな感覚というのは、

どうも「建て前」から「本音」にもどることの象徴的な身体運用だったのではないかと、

唯幻論をふまえてみると、なんか納得するのです。