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地域教育連絡協議会

 地域教育連絡協議会の委員として
参加している。

 地元の小学校の学校運営などを
学校長から連絡をうけ、選考されたものたちが、
一いち意見を述べるという組織である。

 地元の有力者やPTA会長、同窓会長などが、
その委員である。

 この役目をお引き受けして、かれこれ
15年が経つとおもう。

 が、「協議会」とは名ばかりで、
いちどたりとも「協議」をしたためしがない、
いわゆる形骸的な会である。


 しかし、校長から、長々と連絡をうけることは
あるから、協議会の名としては、
はんぶんは正しいことになる。

 新任の副校長先生がお見えになって、
そのときの連絡協議会は、
だれも、筆記をしていないから、
この場の状況の歴史はゼロということになる。

 象徴的といえばそれまでであるが。

 形骸的といっても、せめて
ノートにメモることくらいはしたほうがいいと、
わたしは、そのあと、
副校長先生にもうしあげたこともあった。

 いま、小学校では、シャープペンシルは禁止である。
鉛筆を使わせている。鉛筆は使わせているが、
鉛筆の持ち方は教えない。

 だから、ことごとく、子どもたちは、
書く手の親指が、鉛筆からにょきって出て、
硬直したようなカタチになる。

 欧米人は、
表音文字の言語で横書きだから、
その持ち方でよろしいが、
日本語は、縦文化で、まだ縦書きが残っているから、
あの鉛筆の持ち方では、じょうずな
日本語が書けるわけがない。

 
 大学でもしかりなのだが、
とにかく横文字の学部に受験生が集まるらしい。

 メディアなんとか、とか、
なんとかコミュニケーション学科とか。


 これは、グローバリゼーションの波の
影響であることはまちがいないのだろうが、
前にももうしあげたが、グローバル化は、
世界の価値観の共通化であり、
個別的な考量の消失につながることは
間違いないことである。

 
 グローバル化とは、
よく言えば、
「国家の地域という縦割りの境界を越え、
地球がひとつの単位となる変動の過程」である。


 が、ひとつの単位となったときに、
各国の個別性が崩壊するということも、
念頭におかなくてはならない。


 つまり、農耕民たる日本の農耕性は、
肉食文化に移行し、陰翳礼讃のような、
日本のおもむきは、すでにかなたに葬り去られそうに
なっている現状だ、ということである。

「風情」という言葉が死語となり、
スカーレットオハラの名台詞、
「いいわ、明日になったら考えましょう」も、
早く答えろよ! という罵声となって返事がもどってくる。

速度礼讃の社会において、
日本的情緒のうすれてくることを
もうすこし初等教育で見直していただかなければ
ないらないのではないかと、わたしはおもう。


これも、別稿でもうしあげたが、
「時間の成熟」を、子どもたちに教えないと、
グローバル化の潮流におしながされてしまう。


ハワイでは、月に虹がかかることがあるそうだ。
それをムーンボウという。

これは、現地のひとでもめったに
見られない現象らしいが、
ムーンボウを見るために、
一晩、月を眺めている、
そんな「時熟」なときがあってもいいのではないか。


 望遠鏡で見る、
ケプラーb22、あ、これは見つからないか。
肉眼でも確認できるが、銀河系のむこうにある
アンドロメダ大星雲、それをさがして、
そのむこうになにがあるか、
そういうことにおもいをはせる。

素敵じゃないか。


 
 そもそも親が、携帯などのゲームを
やらせるのも、あまり感心したことではない。


 規格品のゲームは、子どもの
想像力と個別性をねこそぎ剥いでしまうからだ。

  
 なぜ、じゃ、やらせるのか。

 「みんながやっているから」が、その答えである。

 「みんながやっている」という考量こそ、
農耕民族たるわが国の、かなしいものの見方なのだが、
こういう負のスパイラルで、
日本の独自性がつかわれている、
という逆説を感じざるを得ないのであるけれども。


 だから、高度資本主義の末期において、
われわれが、これからさき、
この、あるかないかわからない未来を
この子たちに譲渡するとき、
しなくてはならないことといえば、
ゆっくりした時間も味わおうよ、
ということなのだ。

 時間にしばられた、時間割のなかに
児童をおしこめるだけでなく、
あるときは、昼過ぎから、川原にでかけて、
すきなことしていいよ、というのも、
教育なのかもしれない。


 ということを、こんどの
地域教育連絡協議会でもうしあげようとおもうが、
こんな長い話、だれも聞いてくれないだろう。