Menu

お得なアプリでクーポンGet!

店舗案内

ブリコルール

 クロード・レヴィ・ストロースというひとが、
『野生の思考』で、ブリコルールについて
言及している。

 ブラジル西武に、マットグロッソ・ド・スル州はあり、
そこのインディオたちは、草原をあるき、
なんに役たつのかわからないけれども、
そのうちなにかに役立つだろう、というものを
拾い集めては家にもちかえる。

 そんなに大きな袋はもっていないから、
なんだかわからないけれども、
将来的に役立つものは限界がある。


 そういう「もの」をむつかしくいうと、
潜在的有用性という。

 そして、かられは、家でそのものを
工作して、日用品として再利用するのだ。


 そういう潜在的有用性のある「なにか」を
見つけ出す能力こそ、もっとも知的な行為なのである。

 セレンディプティなどの術語もあるが、
これと、類比的なことである。

 この、インディオたちの行為を
フランスの社会人類学者は
ブリコラージュと呼び、
そのひとたちをブリコルールと呼んだ。

ブリコルール、わたしはこれを「工作的人間」と
翻訳している。

 つまり、知性的な人種は、
西欧人だけでなく、各地に存在する、
ということをレヴィ・ストロースは発見するのである。


 当時の、エスノセントリズム、自民族主義の西欧人は、
この言説に、度肝を抜かれたはずである。


「おれたち以外にも、知性はあったのだ」と。


 こういう思考こそ、構造主義を支える根幹となる。

 で、このブリコルールの概念は、
ジャック・デリダというなにを言ってるのか、
よくわからないひとによって、
どの領域にも、ブリコルールはあると説いたものだから、
情報化時代のことごとくに、それが敷衍されてしまっている。


さて、わたしは東急ハンズがみょうに好きで、
よくつきあってくれる友人は、ここが嫌いなので、
あんまり時間がとれずに店内を回るのだが、
なにがほしいというものじゃない。

なんとなく、店内をぐるぐるしているうちに、
あれ、これうちの部屋のここのあたりに置いて、
そして、いずれこんなふうに使えるのじゃないか、
なんてかんがえることが楽しいのである。


 これって、マットグロッソのインディオみたいじゃないか。

だから、100円ショップや、フライング・タイガーなども
おんなじことで、なにが欲しいというのではない。

あれ、これ使えるじゃん。

 こんな考量で店をあるきまわる。

 これもむつかしく言えば、前未来形の想像力による
じぶん発見の旅、というのだろう。

 前未来形というのは、明日のいまごろには、
わたしは泣いている、というような思考法である。


 そして、なにもかんがえず、無防備で
店内のあちこちの商品を触ったり、ながめたり、
それによって、じぶんの生活に補填すれば、
より有能感をえることができる、というものを
購入するのである。


 だから、そのときの消費意欲は、
必要にせまられて買ったものより、はるかに、
満足度が高くなるわけである。


 買い物の愉悦のひとつは、
そこにある。


 じぶんの知らなかったじぶんに出会い、
今後、これが、きっとなにかに役立つはずだ、
という創造性を、みずからに与えることができる愉悦である。


 そういう快楽は、
わが部屋にも敷衍され、いらないかもしれない封筒、
いらないかもしれない袋、いらないかもしれない書類、
使い終わったテキスト、写真集、
ほとんど、また、なにかに使うにちがいない、
そうおもっているので、
それを捨てる、ということがなかなかできないのである。


 釣りなどの趣味のあるひとは、
じぶんで、じぶん用の道具を工夫するから、
よくわかっていただけるとおもう。


 わたしは、
きっとブリコルールなにんげんじゃなぃか、
と、おもっているのだが、
ま、そんなに知的とはおもわないが、
しかし、これはなにかに使える、という気持ちは
いつも保有しているゆえに、
けっきょく、わたしの部屋はものにあふれ、
ものに埋もれ、歩く場所もない。


 つまり、
クロード・レヴィ・ストロースの言説の
とどのつまりは、わたしの部屋がきたない
というところに着地するのである。