星野さんは、沼津に釣りにゆくとき、
沼津の仲間たちには、写真屋さんだとおもわれていた。
だから、星野さんのマンションの管理人さんと、
いっしょに釣りに行くときも、
「ぜったい、先生だということを言わないでね」と、
固く言いきかせていた。
なぜ、星野さんが、先生であることを
隠すのか、わたしにはわからなかった。
先生といってもかれは非常勤講師なので、
正規の職員ではなかったけれども、
神奈川の私立高校で40年ちかくも働いていたはずである。
わたしは、そこの専任であったが。
カール・オルフの研究では有名らしく、
大学からのオファーもあったが、
仕事は二の次なので、すべて断っていたそうである。
奥さんから「あなた、もうすこし働いたら」と言われると、
「そうすると、普通のひとになっちゃうじゃないですか」
と、そう答えていたという。
普通のひとがいけなかったのだろうか。
わたしと星野さんの付き合いは、
相模川からはじまる。
相模川でハヤを釣って、それを
自宅のマンションの水槽で飼うのがたのしみなのだ。
たまに、漁業組合のひとが集金にくるが、
「恥・を知れ」と言って、追い返すそうである。
ハヤは自然の川に生息する魚だから、
それに、漁業料をはらう必要はないのだ。
「行けたら行くね」とわたしが相槌をうって、
仕事場でわかれたから、
星野さんは、わたしが、わざわざ相模川まで来るとは
おもっていなかったにちがいない。
「行けたら行くね」という台詞は、
ほとんど行かないよという宣言にちかい。
しかし、わたしは、渓流竿を車に積んで、
相模川の川原を星野さんのいるところまで、
ゴツゴツと車のそこを石ころにぶつけながら
向かったのだ。
その行動に信頼してくれたのか、
釣り仲間として認定してもらえ、
ひどく親密な釣行を、よくしたものだった。
わたしたちは、川釣りよりも、海釣りに
趣向がかわっていった。
川魚は食べられないけれども、
海のそれは、晩飯をいろどる素敵な食材だった。
星野さんは、沼津に行って、さまざまな
釣具屋をまわり、けっきょくマイムスという
釣具屋と懇意になった。
そこにあつまる釣り仲間も、ひとり増え、ふたり増え、
けっきょく星野さんが来るのだからと、
岸壁に7,8名が竿を並べたものだ。
人徳といえばそうだろう。
そういう中に、わたしや星野さんのマンションの管理人さんが
同行したものだから、わたしどもも、星野さんと
おんなじ待遇をうけることになる。
が、しかし、わたしは、
星野さんと25年くらいおんなじ職場で
教師として仕事をしていたにもかかわらず、
「先生なんて、みんなの前で言うなよ」
ということを言われたことがなかった。
じっさい、沼津の防波堤で、わたしが、
高校の話をすることは皆無だったし、たぶん、
星野さんも、わたしが釣り場で仕事場のことを話すなんて
野暮なことはいわないだろうと、
本能的におもっていたにちがいない。
だから、沼津の仲間たちは、星野さんを
写真屋さん、わたしを、ラーメン屋さんとおもっていた。
わたしは、そうおもわれていたことに、
ひとつも訂正を加えなかったし、星野さんは、
ひょうひょうと、ただ釣りにいそしむだけだった。
星野さんの写真屋さんというのは、
ほとんどがコンサート写真である。
子どもたちのリサイタルなど、オファーが
絶えなかっという。
音楽に精通していないと、この曲は長いのか、
短いのか、はたまた、どこがいちばんの見せ場なのか、
それは、写真屋さんにはわからないことである。
その点、音楽の専門家は、
音のしないカメラで、どこを撮ればいいか、
すべてお見通しである。
いちど、自宅にクレームの電話があったそうだ。
だれだかわからないし、いつのコンサートかもわからない。
「うちの娘、写真のほうをひとつも向いているのが
ないんですけれども」
こんなクレームだ。
そのとき、かれはこう返答した。
「お宅のお子さん、ショパン弾いていませんでしたか」
「はい」
「ショパンは低音がむつかしいので、かならず、
ひだりを向いてしまうんです」
そう言ったら、「わかりました」と、
すんなり引き下がったそうである。
これも、専門家でなければであろう。
星野さんの葬式のとき、
沼津の仲間は、川崎の葬祭場にならんでくれた。
そのとき、かられは驚いたのである。
なんで、こんに高校生らしきひとが
えんえん長蛇で参列しているのか。
そして、葬祭場の壁にリコーダを吹いている、
星野さんのフォト。生徒とたのしく囲んでいる写真。
それが、ずらりと貼られているじゃないか。
そこで、沼津の太公望たちはきづくのである。
「星野さんって、写真屋さんではなく、
学校の先生だったのか!」
と。
わたしたちは、星野さんが亡くなったあとも、
沼津に行った。
そのとき、星野さんの仲間から訊かれたのだ。
「あなたも先生なんですか?」