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しあわせ論

 なにがしあわせか、なんていま言っているひと、

かんがえているひとっているんだろうか。

 

 じっさい、国家にたよって、そこに幸福をみいだそう

というスタンスは、共同体論者、つまりコミュニタリアンであり、

国家になんてすがってもしかたねぇよ、

じぶんの自由が優先だ、という自由主義論者、つまりリベラリズムと

おおきく二派にわかれるが、

リベラリズムが世界を席捲する、普遍主義的になることは、

すでに20世紀の初頭に「無理」という結論が出てしまっている。

 

 いわゆる「リベラル・コミュタリアン論争」というやつだ。

 

 ジョン・ロールズという正義論者が

普遍的リベラリズムを唱えたけれど、

サンデルとかマッキンタイヤという学者から

さんざんNGだされ、けっきょく政治的リベラズム、

つまり国家内だけの自由主義が限界ということになっている。

 

これが論争の「けり」になっている。

 

 幸福論を大上段にふりかざしても、

いまのご時世、なんかだれも見向きもしないのではないか、

わたしはそうおもう。

 

 もちろん、きな臭い戦争はまだつづいているし、

ピーター・ナヴァロの『米中戦わば』に象徴されるように

米中戦争はありそうだし、もちろん、日本も参戦しなくてはならないだろうし、

(だから軍事費値上げしたよね)

そんななかに世界の幸福、なんて唱えても

焼け石に水のようなきもする。

 

 だから、マクロコスモスでものをみてもしかたないので、

ものすごいミクロな幸福、ようするに

わたし的な幸せ、スプーン一杯のじぶんだけの幸せをかんがえてみる

 

 いまもとなりの部屋では洗濯機がまわっているが、

これが明日のよそおいの一部となるので、

これから干すわけだが、

干すときの洗濯物はそこそこ重たさを感じるが、

半日、太陽のひかりをあびて、

ひとはだ以上にあたためられ乾き、

それを取り込むときの軽さ、

この手や腕に、その軽さが伝わったとき、

ささやかなしあわせをわたしは感じるのだ。

 

 たまに、すーっと眠りにつくことがある。

何時間か、いや、何分なのか、

グラデーションで目が覚める。

うすぐらい時間。

朝なのか夕方なのか、わからない。

というより、ここはどこなのか。

そして、おれはこれからなにをするのか、

もっというと、そういう瞬間は、

じぶんがなにものかもすっかり失念している。

じぶんがだれなのか、刹那にはわからないのだ。

そして、あ、そーか、いまから塾に行くのだ、

とか、これから店だ、とか

それこそ、グラデーションで

どんどん、じぶんをとりもどしてゆく。

 

 一瞬でもじぶんがだれかわからない、

そして、いま、じぶんがどういう状況なのかを

徐々に認識していゆく、その時間が

すこぶる好きなのである。

 

 これがわたしの幸福論。

 

 つまり、しあわせというものは、

そんなちっぽけな、一人ひとりのものであり、

普遍主義、ユニバーサリズムのような

崇高なものでなく、

むしろ、落穂ひろいの落穂のようなものではないだろうか。