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言葉をあやつる

 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは
「言葉が人間をつくる」と言いのけた。

 たしかに、われわれは日本語を母語に
もっていて、これは選択したわけではなく、
生まれながらに与えられたものであった。


 ロラン・バルトに言わせれば、
これを「ラング」と呼んでいるわけだが、
このラングによってわれわれは
成長させられてきたわけだ。

 英国の人類学者、フランシス・ゴールトンは、
遺伝子によって子どもは育てられるのか、
環境か、という研究をかさねているが、
狼のなかで育てられた少年は、
最後まで言葉をしゃべらなかったわけだから、
やはり環境がものをいうのだろう。


 「言葉が人間をつくる」のである。


 日常、われわれは3万語ないと
暮らせないというが、いまは、
「やばい」とか「まじで」とか、そんな
下劣な言葉が横行して、おそらく
5千語ももっていないひとがいるのじゃないだろうか。


 言語が貧弱になると人格にも
それが影響するから、性格破綻者も
ずいぶん増えたのではないだろうか。


 じゃ、あんたがどのくらい
言葉を知ってるのかよ、と問われたら、
わたしは、うーん、と唸って答えられないとおもう。


 が、しかし、その言語によってしか、
ひとに気持ちを伝えられないし、
短歌だって、日常の会話だって成立しない。


 ほんとうのことを言えば、
じぶんの気持ちを表すのに、
3万語では足りないのである。


 ラーメンをたべる。

「うまい」

 もう、この「うまい」は、だれかの言った
手垢のついた言葉でしかない。

「美味」「おいしい」

すこしは変形できるが、すべてだれかの
すでに語られたものでしかない。

しかし、言語とはそういうもので、
そこに、すこしでも個性がでれば、
それは、それで素敵なことだ。


 彦摩呂という、わたしの嫌いな芸人さんが
いるが、食のレポートで、
「これは、○×のなんとかやぁ」とか
騒いでいるが、あの下品さはともかく、
ああやって、食べ物を個性的に語るということが、
手垢のつかないゆき方のひとつではある。

「まいう~」もそうであるが、
もう、人口にカイシャしてしまっている。


こういう個性的な表現を、
ロラン・バルトは「スティル」とよんだ。


 たしかに、個別性を担保できているはずなのだが、
そのスティルでさえ、だれかがすでに語ったものである。


 つまり、わたしたちは、
じぶんの気持ちを置き去りにして、
そのへんに転がっている言語から、
ジグソーパズルのひとつのチップをさがすように、
じぶんの気持ちの代替を見つけているのである。


 だから、ほんとうは、ラーメンを食べたとき、
それは、きっと「おいしい」ではないはずなのだ。

 もっと、べつのなにか表現があるはずなのだが、
それが見つからないから、ま、いいやって、
「おいしい」で済ましているのである。


 それを、モーリスブランショというひとは、

「『出来事』は言語化されたときに、
その本質的な『他者性』を失って、
『既知』の無害で、なじみ深く、
馴致された『経験』に縮減される」

と語るが、本質的な他者性というのは、
手垢のついた言語になるということで、
馴致された経験というのは、
みんな知っている言語だ、
ということだから、そんなにむつかしいことではない。


われわれが、短歌をつくるときも、
どの言葉がいいかなって、
九十九里浜から一本の釘をひろうように、
言葉をさがし、むしろ、その言葉にじぶんの気持ちを
近づけて納得しているのである。

べつの言い方をすれば、
言葉によりかかって、言葉に引きずられながら、
さまざまなものを書いているわけだ。


言葉をあやつるのではなく、
じつは、言葉によって、あやつられているのである。



だから、夏目漱石にしろ、内田百間にしろ、
太宰治にしろ、大江健三郎だって、じぶんの気持ちを
正確に言い表せたひとはいない。


 それが、言語の言語たるゆえんである。


 ジャック・ラカンは、そういう性質を「根源的疎外」と呼んだが、
それは、言葉を過不足なくあらわせることは不可能である、
ということである。


 わたしどもは、言葉によって、
ここまで育てられ、はたまた、子どもを育て、
ラングを大事にまもり、スティルを有効につかってみても、
それでも、けっきょく、二番煎じの物まねのようになる、
という悲しいループで生きるしかないのである。