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公用語を英語に

 我が国の公用語が英語になったら、
あなたはどうおもいますか、

という慶応大学の入試問題があった。

 生徒に訊いてみた。

「英語がじょうたつするんじゃないですか」

なんて言うものもいた。

 公用語ね。ということは「ハレ」の語としては英語、
「ケ」の言語は日本語を使用してよい、
ということなのだろう。


 結論から言えば「無理」である。

 
 岸田秀というひとが「唯幻論」で述べているが、
江戸から明治になったときの、
パラダイムシフトは、わが国が分裂を病むという
ソリューションを奨励し、外国にはいい顔をし、
そのじつ、じつはそれはうそのじぶんで、
ほんとうは、だれともつきあわない
日本独自の文化を大事にするという、
聖化されたじぶんをもつ、という二重人格が
芽生えたと言っている。


 いわゆる病的な「本音」と「建前」が、
個人でも、国家でも演じられたわけである。


 いまの政治は、政府や、政治家から、
官僚まで、アメリカのしっぽを追いかけているだけだから、
きっと、右にならえで、そうなるかもしれない。



 が、われわれは、
英語が公用語になったら、この本音と建前は、
加速度をまし、ますますわれわれは分裂症を
受け持ち、このことが個人レベルで内在化し、
国家にもぬぐいがたい傷痕と亀裂がしょうじるのは
火を見るより明らかである。


 そもそも、公用語とはなにか。

 げんざい、日本の公用文書はすべて横書きである。

 「ハレ」の舞台に出られるのは横書きだけなのだ。

が、しかし、あるひとつは、いまだに縦書きが
大手を振ってそんざいしている。


 六法全書である。


 あれは、いつまで経っても横書きに
変換されない。


 なぜか。


 「右に同じ」という文言がむすうにあり、
それを、横書きにすれば、すべてを「上に同じ」にしなくては
ならない。

 その煩雑さゆえに、いまだに縦書きらしい。


 それが、すべて英語になるなんて、ありえないだろう。

 百歩譲って、それでも横書きの英語に
六法全書がかわってしまったら、
裁判など、複雑極まりなくなるだろう。


 司法試験もすべて英語。
裁判の進行も英語でなくてはならない。


 陪審員制度を採用しているので、陪審員も
英語に堪能でなくてはならない。


 そのへんの八百屋のおっちゃんが、
英語を理解しなくてはならないのだ。


 「どうせ」とか「せっかく」とか、
日本独特の言い回しがあるわけで、
裁判というのは、そういう心のひだまで、
陳述する場なのだから、それを英語でやる、
というのは、加害者であり、被害者であり、
どちらの心情も、そっくり表現できずに、
語彙数のすくない言語の海に埋められてしまうのだ。



 ま、これは一例にすぎないけれども、
慶応大学もずいぶん安直な問題をだすものだと、
わたしは、こっそりとおもっている。