Menu

お得なアプリでクーポンGet!

店舗案内

自己推薦文

 大学ではさまざまな入試形態が

取り入れられて、アドミッションオフィスとか

わたしどもが学生のときにはなかった

システムがどんどん採用されるようになった。

 

 そこで、自己推薦文なるものが登場するのだ。

 

 昨日も生徒さんの推薦文を見る機会を得た。

 

 わたしは、何々に参加してなにを学んだ。

ボランティア活動をしてなにを学んだ。

こんなサークルにはいって、これを学んだ。

 

 ね、わたしってえらいでしょ。

 

みたいな文章だった。

 

 うーん、どうなんだろう。

わたしは、こういう推薦文をよく見るのだが、

いつも、うーん、なのだ。

 

 なぜ、うーん、になるのかといえば、

ハナシがすべて受け身、受動的なのである。

 

 むこうから与えられたものをうけとる

能力はたしかにある、が、じゃ、なぜ、

ボランティアに参加したかったのか、

なぜ、そのサークルに加入したのか、

という、能動的なエートスがまったく

感じられないのである。

 

 いまの子が一般にそうなのだろうか、

なにを教えてくれますか、という受け身で生きている

ひとが多いのではないか。

 

 一時間、授業を受けて、

そこから学ぶものがすくなければ、

「この授業、意味ないよね」という。

 

 すべてにおいて、能動的な精神がかけているのだ。

 

それは、高度文明がひきおこした弊害なのかと

おもうのだが、部屋に居たきりですべてが

解決する世の中なので、なんでもグーグル先生が

教えてくれるから、外に出て調べるという

身体運用をすっかりそぎ落としてしまったことに

起因しているのかもしれない。

 

 ものすごい便利な世の中は、

人間のもっとも崇高な好奇心をねこそぎ

欠落させてしまったのではないか。

 

 じっさい、わたしどもは、

小学校のころ、いや、幼稚園のころから、

高校にあがるまで、あまり目立たないようにしなさい、

と、はっきりとは教わらないけれども、

そういうような風土のなかで育てられたような気がする。

「目立つなよ」という恥の文化に育まれ、

そんな文化資本のなかで生きてきたわけだ。

 

 会社でも、抜きんでて仕事をするよりも、

みなと歩調を合わせ、互恵的に生きることが

出世の近道だったのではないか。

 

 だから、「余人をもって代えがたい」人物よりも、

みなと仲良くやって目立たない人物が称揚されたわけだ。

 

 このエートスこそが日本を堕落させた

一要因だとおもうが、これがわが国の

縮図なのである。

 

 だから、さいきんは、すぐに肩たたき、

君でなくてもこの仕事は務まるから、やめてください、

というようになっているのは皮肉というより

ほかない。

 

 

 そこで、自己推薦文に話をもどすが、

そんな世の中で育てあげられた子どもが

じぶんを推薦しようということ自体に

無理があるのはとうぜんだろう。

 

 そもそも、ボランティア活動を

自己推薦してよのだろうか。

 

 無償奉仕が「売り」なボランティア活動を

じぶんを「売り」にする推薦文に書くという

矛盾になぜきづかないのだろうか。

 

 だから、わたしは言いたい。

 

 まず、自己推薦文を書かなければならないのだが、

わたしは、いままで、学校でも世の中でも

なるべく歩調をあわせ、目立たないように生きることを

世の中の空気から学んできたようにおもう。

 それに、ボランティアはじぶんの意志ではじめたことだが、

それを推薦文に書くことじだいが、すでにボランティアでは

なくなるので、ここに書くことにためらいを感じる。

 

 わたしは、〇〇ということに興味があり、

そこには好奇の目で〇〇を見ることができる。

大学に入ったら、その〇〇を追究したいとおもっている。

 

 というような内容の推薦文を書いたらどうだろうか。

 

せんせい、そんなこと書いたら落ちますよ。

 

へー、君は落ちることはわかっていても

受かることはわかっていないんだね。

 

 

 大学はなによりも、受動的な人間ではなく、

好奇心をもった能動的な人材をもとめているはずなのである。