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返事のしかたはむつかしい

 家風ラーメンには、小ライスをサービスしている。

「小ライス付きますが、いかがされますか」

わたしは、かならずお客様にはそう訊いている。

「だいじょうぶです」

男性が答えられた。

だいじょうぶ。

この語が難問なのである。

「いりません」という意味で通常はつかっていると
おもっていた、この「だいじょうぶ」であるが、
この男性は、ちがったのである。

「小ライスをもらっても、わたしには
それを許容できるだけの胃袋がある。
だから、もらってもだいじょうぶ」
という意味だったのだ。


そもそも、大丈夫という語は、
立派な男子を意味するのであり、
ライスが不要なのか必要なのかの返答には、
使用しないものである。

あるいは、現在では「まちがいがなく確かなさま」
という使い方が本筋かもしれない。



本屋でも、カバーかけますか。


という問いに「だいじょうです」は、
カバーがあってもいいのか、いらないのか、
どちらにもとれる。

今日、店がおわって、やなか、という珈琲屋さんに
寄った。


と、わかい女性がふたり。


ホットをふたつ。


はい、ミルクと砂糖はご入り用ですか。


だいじょうぶです。


わ。また、はじまった。


袋にお入れしますか。


だいじょうぶです。
あ、買い物があるから、ください。


こんどのだいじょうぶは、いらないという
意思の表明であった。



ところで、だいじょぶの誤用はどこから
はじまったのであろうか。


歴史のはじまった、その原点にもどることを
「零度」というが、「だいじょうぶ」の零度はどこなのだろう。


語源的には、大丈夫は、立派な男子なのだが、
それが、どこかで、立派であるがゆえに、
どんな苦境にたたされても、大丈夫はだいじょうぶなのだ。

究竟の男は、どんな荒波でも、だいじょうぶなのだ。

つまり、だいじょうぶには、ひどく受身的な
意味合いを含むことになるのではないだろうか。


どういう障害でも、それを支えるだけの
能力がある、ということなのかもしれない。


だいじょうぶ、だいじょうぶ、どんと来い、
そんな感じである。


そのへんが、どうも誤用のはじまり、零度なのじゃないか、
とわたしはおもう。


相手の要求にたいして、
失礼なく無難に対応できる、そういう意味合いが、
「だいじょうぶ」を誤用の道に導いていったのではないか。



ともかく、わたしは、個人的に、
この「だいじょうぶ」がひどく嫌いである。


聞きたくもないし、使いたくもない。


それとおなじく、聞いて腹が立つのは、「きびしい」である。


コメントなど、突き刺さってくるようなものに、
きびしい意見ですねぇ、なんてのは「あり」であるが、
明日、時間とれますか、という発問に、
「ちょっときびしいですね」と答えられると、
温厚なわたしも、カチンとくる。


なぜなのか。


「ちょっときびしいですね」に含まれるものは、
じぶんは、完全主義者であり、ふだんは完璧に
ものをこなしている。しかし、あなたの依頼は、
わたしのスケジュールを開けるだけの余裕がありません、
という表明にしか聞こえないのである。


つまり、「きびしい」に、やや上からの物見のような
含みがあるようにおもわれてならないのである。

パードビューなのだ。


この間、仕事場で、事務の女の子に、
「ね、メンディングテープないかな」って訊いたところ、
ごそごそ机の中を探してくれて、
「えっと、きびしいですね」って答えられた。


それ、ありませんってことだよね。


なんでそこで「きびしい」なんて使うんだろう。


これは、学校教育と家庭教育と、
一からやり直さなければならない、
一大事なのかもしれない。



これは、すこし話がちがうが、
そういう応対でもっともむつかしいのが、
性別なのだ。


わかい女の先生が、
二者面談をしていたとき、
ドアをあけてはいってきたひとが、
髪はショートで、すらりとして、
これが父親なのか母親なのか、
さっぱりわからなかったという。


声も男性にしては高いが、女性なら、
かなり低い。


15分間、先生は悩んだ。

はたして、父親か母親か。
最後まで、それが判明しなかったという。


そこで、面談終了時、思い切って、
彼女は、こう話したそうだ。


「では、それでよろしいですね、お母さん」


と、その方は「はい」と答えられたそうだ。


二分の一の確率で当たったのである。