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『こころ』を読む

 「こころ」を読んでいる。

「先生」という人物は「K」には悪いことはない、
悪いのは私である、という単純な対立構造で、
みずからを責める。
そのほうが慚愧のおもいが他者には通じるかも
しれない。
だが、冷静におもえば、なんで「K」という
人物は、「先生」がお嬢さんに好意を持っていることを
理解できなかったのか。
他者をなんにも理解しないで、
じぶんの気持ちだけで生きている。
その傲慢さ、あるいは、エゴイズムを
「先生」は感じていなかったのだろうか。
あるいは、その気持ちを「抑圧」していたのだろうか。

「こころ」では、そのへんの事情については、
なにも書かれていない。

そもそも、「こころ」では、もっとも可哀想なのは、

「お嬢さん」である。のちに「先生」の「奥さん」になるひと。

彼女は、友人Kの自殺の原因もしらないし、

夫の自殺のわけもしらない。

なんにも知らずに、ふたりの男性が身近で自殺するわけだから、

女性蔑視の感がないわけでもない。




にんげんは、ミスを犯す。
ミスを犯すひとがいれば、
ミスを犯されたひとがいるはずだ。
被害者である。

被害者は、ミスを犯したひとをどう処理してもいい。
生殺与奪の権はその当事者にある。

いわゆる、被害者の感情回復、カタルシスである。

そのとき、被害者にはすくなくとも
ある分岐点にたつことになる。

加害者を、もっともキズのすくないように処するか、
加害者を、もっともダメージの多いように処するか、
このふたつである。

わたしは、じぶんがひどくずさんであるし、
読解力はすこぶるないので、
ひとを、徹底的に潰すようなことができない。

(クレームを言うときはべつですよ)

ただ、もっともダメージの多いように処した場合、
うけたダメージは、絶望的な疲労感をともない
加害者を襲う。酸が浸食するように、
取り返しがつかないという事情を
相手の人格に植え付ける。

それは「呪い」である。
「呪い」は、絶望的疲労感とともに、
返答不能の状態を相手に与えることだ。


これは、外交交渉ではあまりよろしくない
やりかただ。相手の逃げ場所がなくなるから。


やはり、にんげん関係も、国交も、
逃げ場所を作っておかないといけないのである。

あさま山荘の犯人が、逃げ場所をうしない、
発砲しまくったのと類比的だ。


ひとのミスは、ミスしたひとがもっとも悪いが、
そういうときこそ、
そのミスをどうしたら、もっとも間違いでないように
補正しながら、他者を含んでみずからの所作を考える、
という紳士で真摯な行き方をしたいものだ。

 

 ところで、授業で「こころ」を読んでいたのだが、

そろそろ「まとめ」になろうとしたとき、

ある生徒がわたしにいいに来た。

 

 

「せんせい、いつになったらKの名前、

教えてくれるんですか」