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「て」の物語

桑田佳祐の「真夏の果実」に

  砂に書いた名前消して
  波はどこに帰るのか

 というくだりがある。

 そもそも、桑田は曲の才能もさることながら、
詞の才覚も豊富で「胸騒ぎの腰つき」
「銀河の星屑になった気がした」
「いつになくやるせない波の音」など、
じっさい舌を巻くフレーズがおびただしくあるのだが、
この詞もじつによい。

 ただ、気になるのは、
「砂に書いた名前消し」た主体はなにか、
やはり「波」なのだろう。

 これを意地悪く考えれば、
「わたしが」「砂に書いた名前」を「わたしが」「消して」
「波はどこに帰るのか」と、
前半の主語をすべて一人称にしても意味がとれなくもない。

 が、それは、やはり牽強付会、こじつけの感が否めない。

 やはり、「わたしが」「砂に書いた名前」を
「波が」「消して」「波はどこに帰るのか」と、
こう読むものだろう。


 と、そこでおもうのだが、
なら「砂に書いた名前消した波」と、
この二行をつなげてみたらどうだろう、と。
文法的には、こちらのほうが齟齬がないようにおもうのだ。つまり、


  砂に書いた名前( を )消した波はどこに帰るのか



 と、こうやったほうが、通りがよいのでは。

じっさい完了の「た」が二度になるといううらみはあるものの、
一行にしてしまったら、と。

 しかし、こうやって詩をじっと眺めてみると、
うーん、どうも原作のほうがはるかによいのだ。


 たかが「て」を「た」に替えただけで、
作品というものは地に真っ逆さまに
堕ちるものだということを再確認したようにさえおもう。


 つまり「て」という助詞、
接続助詞はさすがに「接続」というカンムリをつけるだけあって、

 文と文とを分断する働きをじゅうぶん
所有しているということなのだ。


 「砂に書いた名前消した」「波」と、
どこに帰るかわからない「波」とは、
おんなじ「波」であっても、


 すでに「ものがたり」が違っているということなのである。

「て」という助詞は、それをひとつ使用するだけで、
ひとつの「ものがたり」を紡ぐことになる。


 言い換えれば「て」は、
「ものがたりの起源」をつくる、ということだ。


 もちろん、これは、短歌にもおなじことであって、
助詞の「て」を安直に使ってしまうと、
そこに作者のおもいもよらない無自覚な( 不要な )
「ものがたりの起源」が語られはじめていることになる。



  シャボン玉とんだ
  屋根までとんだ

 この「屋根までとんだ」の主語は
「シャボン玉」だが、「屋根が飛んだ」ともじつは読める。
ま、常識的にありえないのだが。しかし、これを「て」に替えてみる。

 
  シャボン玉とんで、屋根までとんで


 こうなると、「屋根」が主語に見える。