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食文化の幸福論

  もっとも美味なるものは不幸である。

  従来、もっとも美味なるもののひとつに、
フグの肝がある。美食家が最後に行き着くところらしい。

 有名なところでは、八代目坂東三津五郎が、
もうひと皿、もうひと皿と、この肝を食して他界した。

 これは、調理師も有罪になったけれども、
八代目としては、本望だったのではないか。
享年68歳であったが、なにしろ、世界でもっとも
おいしいものを食しての「死」なのだから。


 わが国は、古代より、もっとも美味なるものを
追求してやまなかった。


 もっとも美味なるもの、それを「醍醐」といった。
当時は、牛乳をとことん煮詰め、どろどろにしたものを
「醍醐」と言った。その時代は甘味料がなかったから、
さぞや、牛の乳を煮込んだものは、
キャラメルのようでもあり、おいしかったのだろう。

そこから生まれた語が「醍醐味」である。


 しかし、おいしいものというものは、それを
いちどでも経験してしまうと、もう、それ以上がないと
おもえば、それから先の人生は不幸の連続となる。


 みかんは、わたしは長崎の伊木力みかんが
最高のみかんだとおもっているが、
みかんというと、味はまちまちで、
あれ、これ酸っぱいな、といいつつ、
つぎのみかんを剥いている。

 みかんという果物は、これいじょう、甘くて、
おいしいみかんがある、という信憑によって、
その存在があるようにおもうのだ。

 こたつの上に乗っているみかんは、
いま、わたしが食しているみかんよりも、
糖度があり、かおりがあり、

すこぶるうまいものかも しれないという、

未来を予想することも 可能なのである。


 未来を予想することを前未来形という。


 「明日のいまごろ、わたしはきっと泣いている♪」

 などが、その例である。


 みかんには、もっと甘くておいしいのがあるはずだ、
という愉悦を 前未来形で味わいつつ、

つぎのみかんを食べるという、そういう愉しみがある。



 ずいぶん昔であるが、わたしは、四万十川に旅し、
そこで、川漁師から購入した、天然鮎を食したことがあった。

 川原で炭をおこし、さっきまで、最後の清流で泳ぎまわった
珠玉の香魚を食べてしまったのである。


 その一匹一匹は、ほとんど川コケの味であった。
つまり、鮎を食べているのではない、四万十川の
自然そのものをわたしは口中に
このうえもない至福とともに味わったのである。


 だから、それから、どの鮎を食べても、
ひどくがっかりすることになるのだ。


 国語科の同僚と飲み会をしたときに、
国語科主任が、鮎を食べながら、わたしにむかって、
「うまいね~」と、相槌をうながしたのだが、
未熟者であったわたしは、素直に
「はい?」と、主任の同意を突き放してしまったのである。


 これも四万十川の鮎のせいである。


 もっとも美味なるものは不幸である。


 それからというもの、仕事でも、なんだかずいぶん
わたしに仕事量が増えたような気がしたものだ。


 日本酒に、朝日酒造の「得月」がある。

 久保田で有名な会社である。
萬寿とか、千寿とか、ちまたでは言っているかもしれないが、
新潟では、久保田という名前は多く、
朝日酒造の杜氏さんも久保田さんだそうだが、
その久保田さんがつくる酒で、萬寿や千寿などとは
ほど遠いレベルの「得月」を飲む。


 米を29パーセントまでけずり、
それからアルコールをひきだすのは、
アクロバシィなことなのに、うまくアルコールが
醸成されて、すこぶる上質な一品ができあがる、
それが「得月」なのだ。

 720ミリリットルで4500円くらいする。


 これをいちどでも飲んでしまうと、
ほかの日本酒がどれを飲んでも
とてもまずく感じてしまうのだ。

 もっとも美味なるものは不幸である。


世のなかにおいて、ベストワンを決めてしまうと、
そこに不幸の影が忍び寄ってくるのは、すでに自明の
ことになっているのかもしれない。


 もっと、これいじょうにうまいものがある、
そうおもうほうが、
知的負荷がすくなくて、安直な幸福論となろうが、
そう認識しながらの
食事ほど味気ないものはないような気もする。


 ようするに、あのときのあの味がいちばん
美味かったなとおもいつつ、
いま食しているものを口中にほおばる
その不幸をなんども経験することを
われわれは、幸福と呼んでいるのである。